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スコットランド王ドナルド2世(英語化(Anglicization)された名称)、本名Domnall mac Causantín(スコットランド・ゲール語: Dòmhnall mac Chòiseim(IPA:[ˈt̪oːvnəɫ̪ˈmaʰkˈxoːʃɪm]))[1]は、9世紀後半にピクト人の王またはアルバ王であった人物。ピクト王コンスタンティン1世(Causantín mac Cináeda)の息子であり、中期アイルランド語の詩『The Prophecy of Berchán』において「Dásachtach(=狂人)」という諡号を与えられている[2]。
ドナルド2世 Donald II | |
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先代 | ギリック(en:Giric) |
次代 | コンスタンティン2世(Constantine II) |
死亡 |
900年 フォレス(en:Forres)もしくはドゥノター(en:Dunnottar) |
埋葬 | アイオナ島 |
王室 | アルピン朝 |
父親 | ピクト王コンスタンティン1世(Constantín mac Cináeda) |
子女 アルバ王マルカム1世(Malcolm I) |
ドナルドは先代のギリック(Giric mac Dúngail)の死または退位により王となった。その即位の時期は定かではないが、通常889年とされている。『アルバ王年代記(The Chronicle of the Kings of Alba)』にはこのようにある。
Doniualdus son of Constantini held the kingdom for 11 years [889–900]. The Northmen wasted Pictland at this time. In his reign a battle occurred between Danes and Scots at Innisibsolian where the Scots had victory. He was killed at Opidum Fother [modern Dunnottar] by the Gentiles.[3]
以下が和訳例。
コンスタンティンの息子ドニウアルドゥスは889年から900年の11年間王国を維持した。この頃、北方民族(ノース人)はピクトランドを荒廃させた。その治世の間に、イニシブソリアンでデンマーク人とスコットランド人の戦いが起こり、スコットランド人が勝利した。彼はオピドゥム・フォザー(現在のドゥノター(en:Dunnottar))で異教徒たちによって殺害された。
ドゥノター(Dunnottar)での襲撃は、少数の海賊による小規模な襲撃ではなく、『ヘイムスクリングラ』の中でハラルド・フェアヘアー(ノルウェー王ハーラル1世)が行ったとされるスコットランドでの略奪に関連したものである可能性が指摘されている[4]。『The Prophecy of Berchán』においてはドナルドがドゥノターで死したとされているが、それは北欧人ではなくゲール人の仕業とされているようで、フォレス(Forres)で死んだとする史料もある[5]。ドナルドの死は『アルスター年代記(Annals of Ulster)』と『クロニコン・スコットラム(Chronicon Scotorum)』によって900年のこととされているが、そこではピクト王ではなくアルバ王とされている。いずれにせよ、父であるコンスタンティンと同様若くして殺害され、死後はアイオナ島に埋葬されたのである。
ピクト王からアルバ王への変化は、スコットランド人による王国成立への一歩を示すものと考えられているが、歴史家の中でもこの変化がいつであったかの位置づけについては、意見が分かれており、「狂人」とのドナルドの諡号からして、一般にドナルドのものとされることはない[6]。大きな変化はコンスタンティン2世(Causantín mac Áeda)の治世に起こったというのが一致した見解である[7]が、ギリックの治世であるという説もある[8]。
『アルバ王年代記(The Chronicle of the Kings of Alba)』では、ドナルドは従兄弟のコンスタンティン2世に継承されている。ドナルドの息子マルカム(Máel Coluim mac Domnall)は後にマルカム1世として王になった。『The Prophecy of Berchán』では、ドナルド2世とコンスタンティン2世の間に「半日主権を握るだろう」と別の王が短期間に君臨したことを示していると見られる。この裏付けと見られるものとして、『クロニコン・スコトルム』には、904年に「ピクト王イード(Ead)」が「Uí Ímair」との戦いで死亡したとされている。しかし、これは誤りであり、おそらくバーニシアの支配者アドゥヴルフ(Ædwulf I of Bernicia)のことであろうと考えられており、その死は他のアイルランドの年代記(Irish annals)では913年であったと報告されている[9]。
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