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デイモン・スタウダマイアー(Damon Lamon Stoudamire、1973年9月3日 - )は、アメリカ合衆国のバスケットボール選手。オレゴン州ポートランド出身。NBAで13シーズンプレーした。ポジションはポイントガード。178cm、78kg。元NBAプレーヤーのサリム・スタウダマイアー、ヒューストン・ロケッツなどに所属していたテレンス・ジョーンズ[1]は従兄弟にあたる。
ボストン・セルティックス AC | |
---|---|
ポジション | PG |
役職 | アシスタントコーチ |
シュート | 左 |
基本情報 | |
愛称 | Mighty Mouse |
国籍 | アメリカ合衆国 |
生年月日 | 1973年9月3日(51歳) |
出身地 | オレゴン州ポートランド |
身長(現役時) | 178 cm (5 ft 10 in) |
体重(現役時) | 78 kg (172 lb) |
キャリア情報 | |
出身 | アリゾナ大学 |
ドラフト | 1995年 7位 |
選手経歴 | |
1995-1998 1998-2005 2005-2008 2008 |
トロント・ラプターズ ポートランド・トレイルブレイザーズ メンフィス・グリズリーズ サンアントニオ・スパーズ |
指導者経歴 | |
2008-2009 2009-2011 2011-2013 2013-2015 2015-2016 2016-2021 2021- |
ライス大学 (選手育成) メンフィス大学 (AC) メンフィス・グリズリーズ (AC) アリゾナ大学 (AC) メンフィス大学 (AC) パシフィック大学 ボストン・セルティックス |
受賞歴 | |
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Stats Basketball-Reference.com | |
スタウダマイアーは未婚の両親のもとで生まれ、父方の祖母のもとで育てられた。祖母はデーモンが高校生のときに他界するが、彼の腕には祖母の住所と名前が入ったタトゥーが彫られている。父親のウィリーはデーモンが7歳の頃にミルウォーキーに移り、その後は叔父2人が父親代わりになる。叔父のチャールズはデーモンのバスケットボールのコーチとして叔父のアンソニーはフットボールのコーチとしてデーモンを育て上げた。高校はウッドロー・ウィルソン高校に進学。スタウダマイアー擁する同校はオレゴン州屈指の強豪となり、彼の在学中74勝4敗を記録し2度の州チャンピオンになった。デーモン自身はその間26.1得点9.2アシストのアベレージを残し、2度のオレゴン州の年間最優秀選手と、コンバース選出のオールアメリカンに選ばれた。
大学はアリゾナ大学でプレイ。2年目の1992-93シーズンからは3年連続でオールPac-10チームに選出され、94-95シーズンには平均22.8得点、7.3アシストをあげて、ジョン・ウッデン賞の最終候補にもなった。チームは1993年と1994年のPac-10タイトルを制し、1994年のNCAAトーナメントではFinal4まで進出した[2]。在学通算1800得点、600アシスト、400リバウンド以上は、Pac-10出身の選手としては、ゲイリー・ペイトン以来の快挙であった。大学での選手登録期間満了(4年)後、1995年のNBAドラフトにエントリーした。
ドラフト前のスカウティングレポートでは、すばらしい能力を持っているが、5フィート10インチと背が低いことが問題だと評価された。アトランタ・ホークスの副社長からは、背が低い選手は非常に良いものがないといけないが、スタウダマイアーにはそれがないと言われた[3]。
NBAは1995年のオフシーズンにトロント・ラプターズとバンクーバー・グリズリーズを新たに創設した。
ラプターズの初代ゼネラルマネージャーは、アイザイア・トーマスであり、彼はポイントガードを補強することを望んでいた[3]。この年のNBAドラフトはカナダのトロントで開催され、地元ファンはラプターズがUCLA出身のスモールフォワード、エド・オバノンを指名することを望んだが、ラプターズは1巡目7位指名権をデイモン・スタウダマイアーに使った。スタウダマイアーの名前が読み上げられた瞬間はドラフト会場内にブーイングが起こったほどであった。ドラフト全体7位での指名は、ドラフトロッタリー制度が導入された1985年のNBAドラフト以降、6フィート以下の身長の選手としては最高位であった[3]。
スタウダマイアーのルーキーシーズンは、地元ファンの予想を良い意味で大きく裏切るシーズンとなった。身長178cmとNBA選手としては極めて小さい身体ながら、抜群のスピードとクイックネスを武器に得点とアシストを量産し、95-96シーズンは19.0得点、9.3アシストのアベレージを残し、NBA史上最も身長の低い新人王獲得選手となった[3]。ちなみにエド・オバノンは9位指名でニュージャージー・ネッツに入団するが、目だった活躍をすることなく1997年にNBAを離れた。スタウダマイアーと同じく1年目のラプターズは新設チームだけあって、21勝61敗と大きく負け越した。一方でこのシーズン、マイケル・ジョーダン擁するシカゴ・ブルズは72勝というNBA史上最高勝率を記録しリーグを席巻していたが、ラプターズは僅か10敗しかしなかったこのブルズから、貴重な1勝をもぎ取っており、この試合でスタウダマイアーは30得点、11アシストと活躍した。2年目には平均20得点を突破し、翌97-98シーズンも平均19.4得点、8.1アシストという高い数字を維持するが、チーム成績は一向に向上する気配を見せず、このシーズン中にポートランド・トレイルブレイザーズにトレードされた[3]。
ブレイザーズでは7シーズンプレーし、プレーオフに5回出場、カンファレンスファイナルに2度進出した[3]。
選手層の厚いブレイザーズでは先発の座は確保したものの出場時間は減少したため、個人スタッツは全体的に後退し、98-99シーズンは12.6得点、6.2アシストとやや平凡な数字に終わった。1999-2000シーズンにはゲームメイクもできる名ポイントフォワードのスコッティ・ピッペンが移籍してきたため、スタウダマイアーのスタッツはさらに後退したものの、選手層にさらに厚みを増したブレイザーズはリーグでも屈指の強豪チームへと成長し、プレイオフではカンファレンスファイナルまで進出。当時はロサンゼルス・レイカーズが3連覇を達成するなど、リーグを席巻していたが、ブレイザーズはレイカーズのライバルチームの1つとしてその時代を彩り、スタウダマイアーも先発PGとして重要な役割を果たした。しかしレイカーズ時代が終焉を迎えるとともに西の強豪ブレイザーズの内部でも暗雲が垂れ込め始めた。
端を発したのはスタウダマイアーの自動車運転中のスピード違反であった。この時スタウダマイアーの所持物のなかにマリファナが見つかり逮捕されると、さらにチームメイトのラシード・ウォーレス、キンテル・ウッズがマリファナ所持で相次いで逮捕され、さらにはウォーレスとルーベン・パターソンが練習中に乱闘を演じるなど不祥事が絶えず、「ジェイル(監獄)・ブレイザーズ」と揶揄されるまでになった[4]。混沌とした02-03シーズンを送ったスタウダマイアーは、6.9得点、3.5アシストとプレイでも過去最低の数字を弾き出した。翌03-04シーズンには13.4得点、6.1アシストと復調したが、チーム戦績は低下する一方でこのシーズンにはついに5割となり、プレイオフ出場も逃した。04-05シーズンには27勝55敗にまで成績が落ち込み、不動の先発PGであったスタウダマイアーも8シーズン過ごしたブレイザーズをついに離れることになったが、ブレイザーズでのラストシーズンとなったこの年、スタウダマイアーは2つの記録を樹立した。まずは2005年1月14日のニューオリンズ・ホーネッツ戦でキャリアハイとなる54得点をあげ、ブレイザーズのフランチャイズ記録となった[5]。さらに4月15日には1試合だけでスリーポイントシュート21本を放ち、当時の1試合最多スリーポイントシュート試投数のNBA記録を作った(21本中5本成功)。
2005年の夏にフリーエージェントとなったスタウダマイアーに幾つかのチームが興味を示したが、最終的に同時にトレードに出されるジェイソン・ウィリアムスの後釜として獲得を希望したメンフィス・グリズリーズに移籍した。新天地での最初のシーズンとなった05-06シーズンは、12月30日の古巣ブレイザーズ戦で右膝の腱を断裂するという大怪我を負い、残りのシーズンを棒に振る事態となった。翌06-07シーズンはチャッキー・アトキンスと出場時間を分け合ったため、平均得点は2桁を下回った。
07-08シーズン、新人のマイク・コンリー・ジュニアの活躍もあり、12月30日まで試合出場がなかった。2008年1月28日、グリズリーズを解雇された[6]。同年2月3日、サンアントニオ・スパーズと契約を結んだ[5]。2008年シーズンでは同じポジションのトニー・パーカーが好調なこともありほとんど出番なし。オフにも完全FAとなるが、チームと再契約することはできなかった。
08-09シーズン開幕前、ヒューストン・ロケッツのトライアウトに参加したが契約に至らず、現役を引退した[3]。
2008年12月、ライス大学のアシスタントコーチに就任。2009年2月、メンフィス・グリズリーズのライオネル・ホリンズヘッドコーチのもとで、ヘンリー・ビビーとともにアシスタントコーチに就任した[7]。
2011年5月、メンフィス大学のコーチングスタッフに加わった[2]。
2013年5月、メンフィス大学を離れ、アリゾナ大学のコーチングスタッフに加わった。
2015年5月、アリゾナ大学を離れ、メンフィス大学のコーチングスタッフに再度加わった。
2016年3月、再度メンフィス大学を離れ、パシフィック大学のヘッドコーチに就任。2021年7月からはボストン・セルティックスのアシスタントコーチとして約2年在籍。
2023年3月13日、ジョージア工科大学のヘッドコーチ職に就任が決定した。
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