イェヘナラ氏女真族、明代海西女真部落・イェヘの部主 ウィキペディアから
チュクンゲ (満文:ᠴᡠᡴᡠᠩᡤᡝ, メレンドルフ式転写:cukungge, 漢語:楚孔格など[1]) はイェヘナラ氏女真族。明代海西女真 (フルン) の一つであるイェヘ部の部主。
明朝辺塞を屡々侵犯し、他衛の朝貢を妨害した。後に明朝に懐柔されて入貢し始め、都督僉事に昇任したが、ハダ部主・ワンジュにより誅殺され、貢勅を横奪された。このことは後々、ハダとイェヘの間に埋められない溝を生じさせ、延いてはフルン全体の衰滅に繋がった。
正徳元 (1506) 年初頭、明朝辺塞を度々掠奪していた父・チルガニが、開原 (現遼寧省鉄嶺市開原市) の貢市で斬首された。[2]
正徳8 (1513) 年旧暦正月18日、明朝は兵部侍郎・石玠を海西部へ派遣した。それまでチュクンゲ、及び海西部の酋長・老鼠 (人名)、乃留、都督・加哈叉[3]らが、明朝辺塞を度々侵犯し、他部落の入貢を妨害していたが、明朝側は、急出兵が海西部を刺激して兵乱が誘発されることを危惧し、懐柔策に出た。[4]
正徳8 (1513) 年旧暦6月14日、石玠が開原に到着し、通事・馬俊を派遣して諸夷の懐柔にあたらせた。これにより、兀央衛の撒哈答らを筆頭にして弗朵克、木里吉、速塔児河、忽石門、荅蘭城、哥吉河など諸衛の500余人が来朝して馬を進納した。チュクンゲ、及び加哈叉[3]、老鼠、乃留らも属部2,000人を連れて入貢した。[5]
正徳8年旧暦8月4日、チュクンゲらはその後改心し、勤恪に入貢していたものの、動やもすれば官職、官印、貢勅 (入貢勅書) を要求した為、明朝は協議の上、チュクンゲには父・チルガニの塔魯木衛 (/達喜木魯衛)[6]指揮僉事を承襲させ、貢勅は一年以上問題を起さなければ与えることにした。[7]
正徳14 (1519) 年旧暦5月7日、明朝はチュクンゲらを含む塔魯木衛に褒賞を下賜した。[8]
嘉靖3 (1524) 年旧暦2月5日、塔魯木衛都督僉事[9]に昇任したチュクンゲらが入貢。[10]同月24日、チュクンゲは、塔魯木衛都督僉事に昇任して久しいことを理由に、明朝に奏請して金帯大帽を下賜された[11]。
嘉靖4 (1525) 年旧暦2月15日、入貢。[12]
嘉靖9 (1530) 年旧暦2月14日、入貢。[13]
嘉靖12 (1533) 年[14][15]、海西部において強大な影響力を振った塔山前(/塔山左)[16]衛の都督・ケシネ[17](初代ハダ部主・ワンジュの父、初代ハダ国主・萬の祖父) が、同一族により殺害された。[18]
嘉靖13 (1534) 年旧暦3月13日、入貢。[19]
嘉靖29 (1550) 年頃 (/24-25年頃)[20]、ハダ部主・ワンジュ (ケシネ[17]の次子) により誅殺され、貢勅700道および所属13部落が劫奪された。[21]チュクンゲの孫・チンギヤヌとヤンギヌ兄弟はこの事を恨みに思い、以降、ことあるごとにハダの部落を執拗に襲撃、掠奪する。そしてこれが海西女真 (フルン) 全体の弱体化に繋がり、建州部ヌルハチの勢力を伸長させる結果となる。
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