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チュイェンは、明朝後期の建州女直で、アイシン・ギョロ氏。清太祖ヌルハチの嫡長子。ホン・バトゥル、アルガトゥ・トゥメンなどとも。
武勇に長け、叔父シュルハチ死後は軍の一部統帥権を握ったが、ヌルハチの嫡長子であることを笠に着て次第に横柄さを見せ始めた為、ヌルハチにより軟禁された末、処刑された。
清太祖ヌルハチとその嫡妻 (元妃) トゥンギャtunggiya氏との間に嫡長子として生まれた[9][10]。シュルハチ (ヌルハチ同父母弟) 死後には出征時の統帥や軍政を担った。
萬曆26年1598旧暦正月、ヌルハチの命を受け、叔父の巴雅喇バヤラ、噶蓋ガガイ、フョンドン (後の開国五大臣の一) らとともに兵1,000名を率いて安楚拉庫アンチュラクに侵攻した。星の瞬く夜に着いた一行は、村落20箇所を制圧して残りを悉く招降し、接収した人畜は10,000餘りにのぼった。チュイェンは功績によりホン・バトゥルの称号を賜わった。[2]
萬曆35年1607、ウラ属領フィヨ部落がヌルハチへの帰順を願い出た為、ヌルハチは弟シュルハチとチュイェンらを派遣し、フィヨ部民の移送へ向わせた。移送阻止を図るウラも派兵し、両軍は李氏朝鮮領内の烏碣岩で衝突したが、チュイェンらの攻勢に圧されたウラ軍は大敗して将兵を大量に失った。チュイェンはその戦功を讃えられアルガトゥ・トゥメン (漢訳:廣略)[注 1]の称号を賜わった[6]。
萬曆36年1608、ウラ要塞の一つであるイハン山城を、叔父シュルハチの子アミンとともに攻略した。イハン山城は要害に築かれ難攻不落とされていた為、陥落を知ったウラ国主ベイレブジャンタイはヌルハチに媾和を求め、ヌルハチの女ムクシを降嫁された。
しかし後の開国五大臣であるエイドゥ、フョンドン、ホホリ、アンバ・フィヤング、フルハンおよび一部兄弟との関係は良好とは言えず、度々反目者を貶める発言をヌルハチにしていたため、却って自らの部下に対する苛虐的態度が暴露され、兵権も剥奪された。
不満を爆発させたチュイェンはそれを言動に表したため、太子の位を剥奪された挙句、軟禁状態に置かれた。しかしその後のチュイェンは相変わらず反目者を呪詛したり、実権掌握後に反目者を粛清するなどと豪語したり、反省の色がみえず、萬曆43年1615閏8月[8](後金樹立の前年)、二年に亘る監禁の後、ヌルハチにより処刑された[11]。
*本章は基本的に『愛新覺羅宗譜』「宗室」乙冊に拠った。それ以外の典拠のみ脚註を附す。
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