ディムヤート(アラビア語: دمياط、dimyāṭ)は、エジプト北部のナイル川デルタにあり、地中海に臨む港町で、ディムヤート県の県都。ダミエッタ(Damietta)とも。カイロの北方200kmに位置する。人口は約30.6万人(2021年)。
歴史
古代マケドニアのアレクサンドロス大王に征服される以前、タミアット(Tamiat)と呼ばれていたディムヤートは、古代エジプトの主要都市であった。ところが、エジプト征服後にアレクサンドリアが置かれると、ディムヤートはその重要性を失っていった。
ディムヤートが再び歴史の表舞台に現れるのは12世紀から13世紀、十字軍がイスラーム世界に侵略を始めた頃である。1169年、ビザンツ帝国の援助を受けたエルサレム王国の艦隊がディムヤートを襲ったのである。だがこの襲撃は、サラーフッディーン(サラディン)により撃退された。
第5回十字軍(1217年 - 1221年)に向けて、キリスト教徒はディムヤート奪取を戦略の中心に据えた。ディムヤートを奪うことで、ナイル川流域を支配し、ひいてはエジプトを征服できると考えたからである。1218年5月、十字軍はディムヤートを包囲した。1219年11月、十字軍はディムヤートの奪取に成功する。しかし1221年8月、ディムヤートに少数の兵を残してカイロへ遠征に向かった十字軍が、マンスール近郊でアイユーブ朝のスルタンであるアル=カーミル(サラディンの甥)に水攻めに遭って包囲されると、十字軍はディムヤート返還を条件に降伏する。十字軍は、再びディムヤートから追い出された。
フランス王ルイ9世が主導した第7回十字軍においても、ディムヤートはキリスト教徒の攻略対象となった。1249年6月、ルイ9世の率いる艦隊が到着すると、間もなくディムヤートは陥落した。同年11月にはカイロへ遠征に向かうが、1250年2月にマンスーラの戦いでバイバルスの軍隊に敗れる。ルイ9世たちは撤退するところへ追撃を受け、ルイ9世以下キリスト教徒勢は全員捕虜になった。ディムヤートを含む占領地の放棄と身代金の支払いという要求を飲み、十字軍は三度ディムヤートから追い出された。
このようにディムヤートは戦略の要衝だったので、マムルーク朝のスルタンとなったバイバルス(前述の将軍バイバルスと同一人物)は、防御の脆弱だったディムヤートを一旦破壊した。その上で、ナイル川から数キロしか離れていない位置に、防御機能を存分に持つ町を再建した。
出身者
- イブラヒム・ハマト - パラ卓球選手
- エサム・エル=ハダリ - サッカー選手
脚注
関連項目
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