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タヤン・カン(Tayang Qan, 生年不詳 - 1204年)は、モンゴル高原西部の遊牧部族連合ナイマンの最後のカン(Qan)。漢字表記は塔陽罕、太陽可汗[1]、泰陽罕[2]、『集史』などのペルシア語表記では تايانك خان Tāyānk khān(ターヤーン・ハーン)と表記される。実名はタイ・ブカ(Tai Buqa 脱児魯黒)。父はイナンチュ・ビルゲ・ブク・カン、母および妻はグルベス。子は西遼の王となったクチュルク。
ナイマン族の君主イナンチュ・ビルゲ・ブク・カンの死後、その2子タイ・ブカとその弟ブイルク[3]は父の愛妾を取り合って不和となり、部族を分裂させた。タイ・ブカは父の帳殿と平原地方を保持し、弟のブイルクは自分とのつながりの深い数部族を率いて、アルタイ山脈に近い、キジル・バシュの山地に退いた。タイ・ブカは金朝の皇帝から貰った「タイ・ワン(大王)」という称号を帯びていたが、モンゴル人がこれを「タヤン」と発音したので、「タヤン・カン(太陽汗)」と呼ばれた[4]。
タヤン・カンはモンゴル族の首長テムジン(後のチンギス・カン)の隆々たる勢力を見て、オングト族の王アラクシュ・テギンへ使節を派遣し、森の王[5]テムジンに対して共闘しようと請うた。しかし、アラクシュ・テギンはこの申し出をテムジンに通報した[6]。
1204年春、テムジンはクリルタイ(大集会)を招集してナイマン侵攻を決定し、秋を待ってナイマン領土に侵攻した。タヤン・カンはアルタイ山から出発し、カンガイ山(ハンガイ山脈)の麓にその本陣を置いた。タヤン・カンの軍旗のもとには、メルキト王のトクトア・ベキ、ケレイト首領のアリン・タイシ、オイラト王のクドカ・ベキ、ジャジラト氏の首領ジャムカ、その他ドルベン、タタル、カタキン、サルジウトといった諸部族が集結した。両軍がわずかの距離に接近した時、ナイマン軍は敵の陣営から痩せた馬が出てきたのを見て、モンゴルの騎兵が悪い状態にあると判断し、タヤン・カンは軍をゆっくり背進させ、敵を疲労させようとしたが、将の一人コリ・スベチ(Qori Sübeči)[7]が「先代(イナンチュ・ビルゲ・ブク・カン)は決して自分の背はおろか、馬の尻も敵に見せたことはなかった」と諫言したため、その計画をとりやめた[8]。
対陣中、ジャジラト氏族のジャムカはモンゴル軍の隊列をみて「敵は今、かつてないほど良好な状態にある」と言い、戦場から離れてしまう。同じ日、両軍はやや広々とした渓谷において戦闘を開始し、日の沈むころになってナイマン軍は遂に逃走し始めた。タヤン・カンは全身に負傷を受けて、ある高地の上に退却した。彼の重臣たちは彼を鼓舞しようと努め、コリ・スベチは彼の妻妾たち、特に寵姫グルベスが盛装して待っていると叫んだが、その効果はなく、出血のため衰弱したタヤン・カンは地上に倒れたまま動かなかった。その後、降伏を拒んだコリ・スベチらは玉砕を決意し、モンゴル軍に突入してことごとく戦死した[9]。
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