Loading AI tools
ウィキペディアから
タガイ・テムル(モンゴル語: Taγai temür、生没年不詳)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた将軍の一人で、タタル部の出身。『元史』などの漢文史料における漢字表記は塔海帖木児(tǎhǎi tièmùér)で、タハイ・テムルとも表記される。
タガイ・テムルの先祖は「左手の万人隊長(左翼万人隊長)」国王ムカリの配下にあって金朝との戦いに活躍した人物で、金の将軍の王公佐を討ち取る功績を残している。曾祖父の忒木勒哥は四川方面の侵攻に従事し、興元にて戦死した。祖父のジャライルタイ(札剌帯)が亡くなった時、父のバイダル(拝答児)はまだ幼かったため、家督は従祖父の札里・答朮が継ぎ、都元帥タイダル(太答児)の四川侵攻に加わって南宋軍を巴州に破る功績を挙げた。バイダルが成長すると、家督を継いでイェスデル(タイダルの息子)の指揮下に入ったが、ガインドゥ/建都との戦いで戦死した[1]。
タガイ・テムルは父の職を受け継ぐと、まず嘉定の攻略に加わった。嘉定の陥落後は重慶の攻略戦に加わり、タガイ・テムルは敵将の張玨の陣を破る功績を挙げた。1278年(至元15年)には白水江の戦いで南宋軍を破り、敵船一艘を奪い、敵兵13人を捕虜とする功績を挙げたことで、宣武将軍・管軍総管に昇格となった[2]。その後もイェスデルの配下で四川・雲南一帯の諸民族討伐に従事していたが、1289年(至元26年)以後の記録は残っていない[3]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.