ソクラテス (サッカー選手)

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ソクラテス (サッカー選手)

ソクラテス・ブラジレイロ・サンパイオ・ジ・ソウザ・ヴィエイラ・ジ・オリヴェイラポルトガル語: Sócrates Brasileiro Sampaio de Souza Vieira de Oliveira1954年2月19日 - 2011年12月4日)は、ブラジル出身の元サッカー選手。元ブラジル代表。1983年には南米年間最優秀選手賞に選出され、2004年にはペレによってFIFA 100に選出された。実弟のライーもサッカー選手であり、ブラジル代表として1994 FIFAワールドカップで優勝した[2]

概要 ソクラテス, 名前 ...
ソクラテス
Thumb
ソクラテス
名前
本名 ソクラテス・ブラジレイロ・サンパイオ・ジ・ソウザ・ヴィエイラ・ジ・オリヴェイラ
Sócrates Brasileiro Sampaio de Souza Vieira de Oliveira
愛称 Doutor(ドトール、医師)
Magron(マグロン、痩せっぽち)
ラテン文字 SÓCRATES
ポルトガル語 Sócrates
基本情報
国籍 ブラジル
生年月日 (1954-02-19) 1954年2月19日
出身地 ベレン
没年月日 (2011-12-04) 2011年12月4日(57歳没)
身長 193cm
体重 79kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1974-1978 ボタフォゴ-SP 269 (101)
1978-1984 コリンチャンス 297 (172)
1984-1985 フィオレンティーナ 25 (6)
1986-1987 フラメンゴ 20 (5)
1988-1989 サントス 23 (7)
1989 ボタフォゴ-SP 0 (0)
2004 ガーフォース・タウン [1] 1 (0)
代表歴
1979-1986 ブラジル 60 (22)
監督歴
1994 ボタフォゴ
1996 LDUキト
1999 カボフリエンセ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
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父親がギリシャ哲学の崇拝者であったためにソクラテスと名付けられた[3]。プロサッカー選手としては珍しく医師免許を持ち[4]ドトールポルトガル語: Doutor、医師の意味)の愛称で呼ばれた[5]

経歴

要約
視点

クラブ

ベレンに生まれた[6]。16歳でボタフォゴ-SPの下部組織に入団したが[7]、下部組織入団の翌年にサンパウロ大学のリベイラン・プレト医学校[3]に入学し、サッカーより学業を優先して練習にはほとんど参加しなかった[7]。1974年にトップチームデビューすると、有力クラブからオファーが殺到したが、プロ選手生活を送りながら単位を取得し、23歳で大学を卒業するまでボタフォゴ-SPにとどまった。1978年にサンパウロのコリンチャンスに移籍すると[8]、すぐにレギュラーポジションを獲得してチームの中心選手となり、6シーズンの間に297試合に出場して172得点を挙げた。1984年、これまで他のチームから多くのオファーを受けていたが、チーム愛からオファーを拒否し続けていた[5]。しかし、政治的信念から、イタリアのACFフィオレンティーナに移籍した[5]。このシーズンの公式戦33試合で9得点を挙げたが、チームはリーグ8位に終わり、個人としてのパフォーマンスも期待を裏切る結果となり、僅か1シーズンでブラジルへと帰国した[5]。その後はCRフラメンゴサントスFCでプレーした[8]。1989年、古巣ボタフォゴ-SPでのプレーを最後に現役引退した。

現役引退から10年以上が経った2004年、50歳のソクラテスは選手兼任監督としてイングランド・ノーザンカウンティ・イースト・フットボールリーグガーフォース・タウンAFCと1ヶ月の短期契約を結んだ[9]。11月20日のタドキャスターAFC戦で途中出場して12分間プレーし、この試合がイングランドでの最初で最後の出場機会となった[10]

代表

1979年5月にブラジル代表デビューし、1986年6月までに60試合に出場して22得点している[10]。2度のFIFAワールドカップ1982 FIFAワールドカップ1986 FIFAワールドカップ)と2度のコパ・アメリカコパ・アメリカ1979コパ・アメリカ1983)に出場したが、タイトルを獲得することはできなかった。代表チームでは、テレ・サンターナ監督により、ジーコと共にプレーメーカーのポジションで起用された[5]

1982年にスペインで行われた1982 FIFAワールドカップにはブラジル代表のキャプテンとして臨んだ。テレ・サンタナ監督に率いられ、ジーコファルカントニーニョ・セレーゾとともに組んだ中盤は黄金のカルテットと呼ばれた。1次リーグ初戦のソビエト戦で1ゴール[11]イタリア代表アルゼンチン代表と強豪が集った2次リーグではイタリア戦で1ゴールを挙げたが[11]、2-3と敗れ敗退した。1983年のコパ・アメリカでは決勝でウルグアイ代表に敗れて準優勝に終わった。1986年にはメキシコで開催された1986 FIFAワールドカップに出場[8]、グループリーグ初戦のスペイン戦で1ゴール、ラウンド16のポーランド戦でも1ゴールを決める[11]活躍を見せたが、準々決勝でPK戦の末にフランス代表に敗れた。

死去

長年にわたる飲酒と喫煙によって体が蝕まれ、2011年8月下旬と9月上旬には消化器出血と肝臓疾患を併発して入院し[3]、12月1日には再び入院した[7]。12月4日、腸内感染症による敗血症のために死去した[12][13]57歳没

人物

妻と 6人の子どもに囲まれ[14]、現役引退後は故郷のリベイラン・プレトでスポーツクリニックを開業していた[6][7]。重度の酒飲みであり喫煙者であった[15]。ソクラテスはインテリとして知られ、多数の新聞や雑誌のコラムニストを務めたが、話題はスポーツだけでなく政治や経済の分野にも及んだ。頻繁にテレビ番組に出演し、ブラジルサッカー界のご意見番的存在であった。死去時は2014 FIFAワールドカップにおけるブラジル代表のフィクション本を執筆している最中であった[16]

プレースタイル

テクニックのあるプレーメーカーであり、図ったようなスルーパス、広い視野、フィジカルの強さなどで知られる。両足が自在に使え、得点力が高く、強烈なミドルシュートを得意とした[7]。試合を読む能力も高く、ノールックヒールパスが十八番であった[17]。あごひげとヘッドバンドが特徴であり、「全世代のサポーターにとっての上品さの象徴」であった[6]

タイトル

クラブ

ボタフォゴ-SP
  • Vicente Feola champion : 1976
  • Taça Cidade de São Paulo : 1977
コリンチャンス
CRフラメンゴ

個人

個人成績

クラブでの出場記録

[18]

さらに見る 国内大会個人成績, 年度 ...
国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1974ボタフォゴ-SP
1975
19761部
19771部
19781部
1978コリンチャンス1部
1979
19801部
19811部
19821部
19831部
19841部
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1984-85ACFフィオレンティーナセリエA
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1986CRフラメンゴ1部
19871部
1988サントスFC1部
19891部
1989ボタフォゴ-SP
通算ブラジル1部 ||||||||||||||
ブラジル ||||||||||||||
イタリアセリエA 256||||||||||||
総通算 403152||||||||||||
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代表での年別出場試合数

さらに見る ブラジル代表, 国際Aマッチ ...
ブラジル代表国際Aマッチ
出場得点
197965
198082
1981156
198294
198382
198400
198551
198692
通算6022
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脚注

外部リンク

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