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スエズ運河の創建及び旧運営会社(1857-1997) ウィキペディアから
スエズ運河会社(スエズうんががいしゃ、フランス語: Compagnie universelle du canal maritime de Suez、略してCompagnie de Suez)は、1858年にフェルディナン・ド・レセップスが設立し、1859年から1869年までかけてスエズ運河を建設し、その後長年にわたって運河を保有し運営したエジプトの会社である。国際スエズ運河会社、万国スエズ運河会社などとも呼ばれる。当初は、フランスの民間投資者が過半の出資を行っており、エジプト側もかなりの出資をしていた。
1863年にイスマーイール・パシャがエジプトとスーダンのワーリー(エジプト総督)に就任した際、前任のサイード・パシャが会社に与えた免許を認めることを拒否した。この問題は1864年のナポレオン3世による調停にゆだねられ、当初の免許をイスマーイールの要求にしたがって変更することに伴って会社が被る損害の補償として380万ポンドを支払うことになった。1875年に財政危機に見舞われたイスマーイールは、彼の会社の持ち分をわずか397万6582ポンドでイギリス政府へ売却することになった(スエズ運河#イギリスによる介入)。 スエズ運河会社は、1956年にエジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル大統領が国有化するまで運河を運営した。この国有化事件は、第二次中東戦争(スエズ動乱)の原因となった。
1966年まではイギリス王室の持株比率が4割近くを占め、イギリスの役員も3人派遣されていた[1]。しかしポンタ=ムッソン(現サンゴバン)と資本提携するようになってから、王室の持株比率が大きく低下した[1]。1971年から1982年まで商工信用銀行を72%支配したが、インドシナ銀行までも吸収したときパリバをしのぐスケールとなった。1970年代、モルガン・グレンフェル(現ドイツ銀行)系のINA Corporation と共同でBlyth, Eastman Dillon & Co.(現UBS)へ出資をしており、そのブライス・イースタン・ディロンはインドスエズ銀行の1976年に発行した社債をINA と共同管理していた[2]。
1997年、リヨン水道と合併してスエズSA となった。翌年から再来年にかけて傘下のベルギー総合会社をフォルティスグループへ売却した。現在、スエズSAは国際コングロマリットのエンジーとなっている。
1997年の合併まで、左にスエズ運河会社、右にリヨン水道(Lyonnaise des eaux)それぞれの沿革を記す。
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