ジョン・ピーター・オルトゲルド: John Peter Altgeld1847年12月30日 - 1902年3月12日)はアメリカ合衆国政治家。第20代イリノイ州知事(1893-1897)。所属政党は民主党

概要 ジョン・ピーター・オルトゲルド, 第20代 イリノイ州知事 ...
ジョン・ピーター・オルトゲルド
John Peter Altgeld
Thumb
第20代 イリノイ州知事
任期
1893年1月10日  1897年1月11日
副知事ジョセフ・B・ギリ英語版
前任者ジョセフ・W・ファイファー英語版
後任者ジョン・R・タナー英語版
個人情報
生誕 (1847-12-30) 1847年12月30日
ナッサウ公国ゼルタース
死没 (1902-03-12) 1902年3月12日(54歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州ジョリエット
政党民主党
配偶者
エマ・フォード
(結婚 1877年; 死別 1902年)
専業裁判官弁護士
署名Thumb
兵役経験
所属国アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴1863年-1865年
最終階級二等兵
部隊第164オハイオ歩兵連隊英語版
戦闘南北戦争
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経歴

ジョン・ピーター・オルトゲルドは、ナッサウ公国(現ドイツラインラント=プファルツ州)のヴェスターヴァルトゼルタースで生まれた[1]。生後3ヶ月で両親とともにアメリカに渡り、オハイオ州マンスフィールドにやってきた。16歳の頃、年齢を偽って南北戦争に参加し、北軍の第164オハイオ歩兵連隊に入隊した。予備部隊だったため、先頭にはあまり参加しなかったが、従軍中に熱を出して死にかけた[2]。その後、父親の農場で働きながら、レキシントンプライベイトスクールで学び、教員となった[3]

ミズーリ州で鉄道建設の作業員として働きながら、弁護士を目指していたが、気候と労働が原因で病気になり、アンドリュー郡サバンナ英語版で教師と農夫になった。同地の法律事務所で再び法律の勉強を始め、1871年にアンドリュー郡の弁護士資格を取得した[4]。その後、サバンナ市法務官やミズーリ州地方検事を務めた[5]。1875年にシカゴに移って弁護士活動を続けたが、シカゴや地元オハイオ州での不動産取引業で成功を収めた[6]。1891年当時、シカゴで最も高いビルであったユニティ・ビルディング英語版を建設したのはオルトゲルドであった[7]

1884年にイリノイ州第4選挙区から下院議員選挙に出馬したが、共和党現職のジョージ・E・アダムズに敗れたが、共和党支持者の多い選挙区にしては善戦した。同年、オルトゲルドは『Our Penal Machinery and Its Victims』という刑罰改革に関するエッセイを発表し、投獄が犯罪者を再生産していると批判した[8]。1886年にクック郡高等裁判所の裁判官となった。

1893年にイリノイ州知事選に民主党から立候補し、共和党現職のジョゼフ・ファイファーを破って当選した.[9][10]。在任中は労働問題や女性問題の解決に努めた[11]1897年の知事選では共和党のジョン・タナーに敗れた。その後、1899年と1901年にシカゴ市長選挙に出馬するもいずれも落選した[12]。1902年に脳内出血のためイリノイ州ジョリエットで54歳で死去した。

参考文献

外部リンク

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