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第5代エクセター伯爵ジョン・セシル(英語: John Cecil, 5th Earl of Exeter、1648年ごろ – 1700年8月29日)は、イングランド王国の貴族、政治家。1678年に爵位を継承するまでバーリー卿(Lord Burghley)の儀礼称号を使用した。「旅する伯爵」(Travelling Earl)というあだ名で知られる。
第4代エクセター伯爵ジョン・セシル(1628年 – 1678年2月1日)と1人目の妻フランシス(Frances、1630年12月2日 – 1669年12月2日、旧姓マナーズ(Manners)、第8代ラトランド伯爵ジョン・マナーズの娘)の息子として、1648年ごろに生まれた[1]。スタンフォード・スクールで教育を受けた後、1667年6月18日にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに進学した[2]。
地元のノーサンプトンシャーでは1670年から1684年ごろまで治安判事を務め[3]、1675年4月にノーサンプトンシャー選挙区の補欠選挙でイングランド庶民院に当選した[4]。おそらくは無投票当選だった[4]。議会では法案委員会10件に指名された一方、演説は1677年3月2日に義兄のキャヴェンディッシュ卿ウィリアム・キャヴェンディッシュ(のち初代デヴォンシャー公爵)を擁護した一度きりだった[3]。1678年2月1日に父からエクセター伯爵位を継承して、貴族院に移った[2][3]。1679年3月イングランド総選挙ではスタンフォード選挙区で選挙活動をしたが、貴族院では活動が少なかった[3]。1688年の名誉革命ではウィリアム3世を支持したものの、以降はトーリー党の1人として、ウィリアム・アンド・メアリーへの宣誓を拒否した臣従宣誓拒否者の1人になった[1][3]。
有名なグランド・ツーリストであり、1679年、1683年、1699年の3度にわたって大陸ヨーロッパに向かい、イタリアで絵画を多数購入した[3]。邸宅であるバーリー・ハウスはイタリア旅行で購入したものに満ちていた。
1700年8月29日に腹膜炎によりパリの近くで死去[3]、10月20日にスタンフォードのセント・マルティン教会に埋葬された[1]。同名の息子ジョン・セシルが伯爵位を継承した[2]。
1670年5月4日、アン・キャヴェンディッシュ(Anne Cavendish、1649年ごろ – 1703年6月10日、第3代デヴォンシャー伯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュの娘)と結婚[1]、4男4女をもうけた[3]。
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