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ザイン伯爵領(Grafschaft Sayn)は、神聖ローマ帝国の帝国直属身分(Reichsunmittelbarkeit)の領邦。現在のドイツ・ラインラント=プファルツ州のヴェスターヴァルト地方(Westerwald)を支配領域としていた。
ザイン伯爵領の地名は、10世紀ないし11世紀に建てられ、1139年に史料に登場するベンドルフ郊外のザイン古城(Burg Sayn)に由来する。ザイン伯爵家はヴェスターヴァルトにおいて所領を拡大し、勢力はジーク川、ニーダーライン地方に接するまでに至った。最初期のザイン伯爵家の血統上の起源は不明だが、おそらくナッサウ家から出たと考えられている。伯爵家は12世紀後半以降も、結婚を通じて勢力を拡大していった。
1246年、ハインリヒ3世伯の死により最初期のザイン伯家の男系が絶えると、ハインリヒ3世の妹アーデルハイトがシュポンハイム伯ゴットフリート3世に嫁いでいた関係で、次のザイン伯家はシュポンハイム家(Spanheimer)から迎えられた。夫妻の長男のシュポンハイム伯ヨハン1世がザイン伯を兼ね、その息子の世代でハインリヒ1世のシュポンハイム伯爵家を、ゴットフリート1世がザイン伯爵家をそれぞれ相続した。
ゴットフリート1世伯の息子のうち、上の息子ヨハン2世はザイン伯領の大半を受け継ぎ、ザイン=ザイン伯爵家の始祖となった。一方、下の息子のエンゲルベルト1世はファレンダー(Vallendar)および母方からホンブルク=ブレル(Homburg-Bröl)を相続し、傍系のザイン=ホンブルク伯爵家を創始した。ザイン=ホンブルク伯家はその後、ヴィトゲンシュタイン伯爵領を相続してザイン=ヴィトゲンシュタイン伯爵家を称した。
ザイン=ザイン伯爵家は1606年、ハインリヒ4世伯の死により断絶した。ハインリヒ4世の姪で女子相続人のアンナ・エリーザベトは、同族のザイン=ヴィトゲンシュタイン伯爵家の次男ヴィルヘルム3世と結婚しており、ヴィルヘルム3世がザイン伯爵領を受け継いだ。ヴィルヘルム3世の家系は、ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン家(Sayn-Wittgenstein-Sayn)と呼ばれるようになった。
しかしヴィルヘルム3世の孫息子ルートヴィヒが1636年にわずか7歳で死去すると、ザイン伯領はルートヴィヒの2人の姉妹、エルネスティーネとヨハネッテに分割相続されることになった。姉のエルネスティーネはザイン=ハヒェンブルク伯爵領(Grafschaft Sayn-Hachenburg)を相続し、同伯領はその嫁ぎ先のマンダーシャイト伯爵家(Grafschaft Manderscheid)を始め、所有者を次々に変えた。妹のヨハネッテはザイン=アルテンキルヒェン伯爵領(Grafschaft Sayn-Altenkirchen)を割り当てられ、彼女の2番目の夫であるザクセン=アイゼナハ公ヨハン・ゲオルク1世が入手した。
1803年の帝国代表者会議主要決議により、ライン地方にナッサウ公国(Herzogtum Nassau)が成立すると、2つのザイン伯領は公国に併合されることになった。ザイン伯領は1806年の神聖ローマ帝国の消滅を待たずして、独立領邦の地位を失った。
ナッサウ公アドルフ1世は1866年にナッサウ公国を失った後、1890年になってルクセンブルク大公国の元首となった。この関係で、ルクセンブルク大公は現在もザイン伯爵の称号を使用している。
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