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1937年10月6日起工[1]。1939年1月9日進水[1]。1939年9月14日就役[1]。
1940年5月、「キングストン」は駆逐艦「カルトゥーム」、「カンダハー」、「キンバリー」と共に紅海に配備されることになり、5月24日にアレクサンドリアを離れて5月28日にアデンに着いた[2]。
6月21日、「キングストン」、「カルトゥーム」とスループ「ショアハム」はイタリア潜水艦「エヴァンジェリスタ・トリチェリ」を損傷させた[3]。「エヴァンジェリスタ・トリチェリ」は6月23日にペリム島沖で再発見され、「キングストン」、「カンダハー」、「カルトゥーム」と交戦後沈没した[4]。戦闘中雷撃も受けたが、「キングストン」は回避した[3]。また、「キングストン」では自艦のポンポン砲の弾がアンテナに当たり、負傷者が8名出た[5]。6月26日、「キングストン」はイタリア潜水艦「ペルラ」を攻撃[6]。「キングストン」艦長は十分な攻撃をしたと考え撤収したが[6]、「ペルラ」に目立った被害はなかった[7]。「ペルラ」は同日座礁[8]。それを始末するため、6月27日に「キングストン」、軽巡洋艦「リアンダー」、駆逐艦「カンダハー」は出撃し攻撃を行った[6]。しかし、「ペルラ」は後日復旧されている。
1940年9月6日に潜水艦にギリシャの貨物船「アトラス (Atlas) 」が撃沈されると、「キングストン」はその生存者を救助した[9]。10月20、21日夜、BN7船団がイタリアの駆逐艦に攻撃され、イタリア駆逐艦を追撃した「キンバリー」が砲台からの砲撃で損傷した。「キンバリー」は最初軽巡洋艦「リアンダー」に曳航され、途中から「キングストン」がそれを引き継いでポートスーダンへ向かった[10]。12月4日、「キングストン」は反乱がおきた灯台の鎮圧を行った[11]。「キングストン」は1941年1月3日に修理のためボンベイへ向かい、1月27日に修理から戻った[11]。2月3日、「キングストン」などが護衛していたBN14船団がイタリア駆逐艦の攻撃を受けたが、発射された魚雷はすべて外れた[12]。3月、ベルベラ奪回作戦(アピアランス作戦)に参加[13]。マッサワの陥落直前の4月2日にイタリアの駆逐艦がマッサワから出撃したが、空襲により沈没艦を出し、残りの駆逐艦「パンテラ」と「ティグレ」もアラビア半島沿岸で自沈した。「キングストン」はその場に行き、「パンテラ」を沈めた[14]。紅海からイタリア海軍の脅威が無くなったことにより、「キングストン」、「キンバリー」、「カンダハー」は地中海艦隊へ移ることになり、「キングストン」は4月17日にアレクサンドリアへ到着した[14]。
1942年3月、「キングストン」はアレクサンドリアからマルタへMW10船団を送るMG1作戦に参加した[15]。船団は3月20日に出航し、船団攻撃を試みたイタリア艦隊との間で3月22日に第2次シルテ湾海戦が発生。この海戦で「キングストン」は15インチ砲弾の直撃を受けて損傷した[16]。「キングストン」はマルタへ送られて3月23日に到着し、ドックに入った[17]。修理中の「キングストン」は爆撃を受けて4月5日には直撃弾1発を複数の至近弾を、4月9日にも直撃弾1発を受けた[18]。ただ、4月9日のものは不発であった[18]。4月11日に「キングストン」は再び直撃弾を受けて損傷し、全損とされた[18]。
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