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第2代オックスフォード=モーティマー伯爵エドワード・ハーレー(英語: Edward Harley, 2nd Earl of Oxford and Earl Mortimer FRS、1689年6月2日 – 1741年6月16日)は、グレートブリテン王国の貴族、政治家。1711年から1724年までハーレー卿の儀礼称号を使用した。
初代オックスフォード=モーティマー伯爵ロバート・ハーレーと1人目の妻エリザベス・フォーリー(Elizabeth Foley)の息子として、1689年6月2日に生まれた[1]。幼年期をブランプトン・ブライアンで過ごし、宗教的な家庭で育った[2]。1705年頃から1707年までウェストミンスター・スクールで教育を受けた後[2]、1707年10月30日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1712年1月2日にM.A.の学位を、1730年6月4日にD.C.L.の学位を修得した[3]。
1710年イギリス総選挙で議席を得られなかったものの、翌1711年のラドナー選挙区の補欠選挙で当選、議会で父の政策を支持した[2]。しかし、1715年イギリス総選挙で落選、さらに父が長い弾劾裁判にかけられて影響力を失った[2]。1722年イギリス総選挙でケンブリッジシャー選挙区で当選して議員に返り咲いたものの、以降も影響力を発揮することなく、1722年から1724年まで庶民院で発言や投票した記録がなかったという[4]。
1724年5月21日に父が死去すると、オックスフォード=モーティマー伯爵の爵位を継承した[1]。以降は貴族院に移籍、1741年にはロバート・ウォルポールの罷免動議に反対票を投じた[4]。
1727年11月23日、王立協会フェローに選出された[5]。また、1739年に創設された捨子養育院の初代総裁の1人だった[6]。
1741年6月16日に死去、25日に埋葬された[1]。存命中に収集した書籍、硬貨、絵画などは売却され[5]、書簡は1万ポンドで大英博物館に売却された[4]。
文人との交流を好み、アレキサンダー・ポープ、ジョナサン・スウィフト、マシュー・プライアーの友人だった[7]。ポープとは1721年から1739年まで文通を交わし、プライアーはウィンポールにあるハーレーの邸宅で死去した[7]。
コーンベリー子爵は1735年にジェームズ老僭王に対し、第2代オックスフォード=モーティマー伯爵を「定まっておらず、人気のあることをするようにみせかけることを好む」(pretty unfixed, fond of seeming to do what is popular)と述べ[4]、英国人名事典は「無能というよりは怠惰」が原因となって、政務に関わらず社会に関心を持たなかったと評した[7]。
1713年8月31日、ヘンリエッタ・キャヴェンディッシュ・ホールズ(1694年 – 1755年、初代ニューカッスル公爵ジョン・ホールズの娘)と結婚、1男1女を儲けた[2]。
ヘンリエッタとの結婚で50万ポンドの持参金を得たにもかかわらず、借金がかさみ1740年にウィンポールを売却せざるを得なかった[5](初代ハードウィック伯爵フィリップ・ヨークが86,740ポンドで購入した[4])。
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