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ウラジーミル・ニコラエヴィチ・トポロフ(Vladimir Nikolayevich Toporov、 1928年7月5日[1] - 2005年12月5日[2])はソビエト連邦の言語学者。バルト・スラヴ語派の起源や神話、プロシア語などを研究していた[1]。記号学の学派モスクワ・タルトゥ学派の研究者としても知られている[2]。妻はインド文学の研究者タチアナ・エリザレンコヴァ[2]。
ウラジーミル・トポロフは1928年7月5日にモスクワで生まれた[1]。1951年にモスクワ大学スラブ学部を卒業し、1954年に大学院を修了するとソ連科学アカデミーのスラブ研究所[注釈 1]で働き始めた[1]。
1958年、ヴァチェスラフ・イヴァーノフとの共著でバルト・スラヴ語派の歴史を包括的に研究し、その起源と発達について新たな理論を提唱した[1]。1960年のイヴァーノフとの共著“Sanskrit”はインド・ヨーロッパ語族の研究において重要な著作とする意見がある[1]。1962年に発表したオレグ・トルバチョーフとの共著ではドニエプル川上流域の水名約800個を解析し、バルト語の部族がスラブ語の部族よりも先に上流域に定住していたことを示した[2]。
1990年に神話についての研究業績が評価されてソビエト連邦国家賞の受賞が決まっていたが、ソ連がリトアニアに侵攻して1991年1月13日に血の日曜日事件が発生すると1月16日に事件への抗議として受賞拒否を表明した[2][3]。
スラヴ語派はバルト語派から分岐したとする仮説を提唱したことが知られている[2]。また、プロシア語の研究ではプロシア語の辞書“Prussky yazik”を執筆した。この辞書は1975年から1989年にかけて5巻まで出版されており、2002年時点で未完となっている[1]。
トポロフが亡くなった翌日、リトアニア大統領ヴァルダス・アダムクスは追悼文を発表し、その中でトポロフを「偉大な学者であり、我々の独立運動を支持してくれたリトアニアの友人」と表現した[3]。
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