Loading AI tools
アルゼンチンのサッカー選手 ウィキペディアから
アレハンドロ・ダミアン・ファウルリン(Alejandro Damián Faurlín, 1986年8月9日 - )は、アルゼンチン・ロサリオ出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
QPR時代(2011年) | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
アレハンドロ・ダミアン・ファウルリン Alejandro Damián Faurlín | |||||
ラテン文字 | Alejandro FAURLÍN | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
アルゼンチン イタリア | |||||
生年月日 | 1986年8月9日(38歳) | |||||
出身地 | ロサリオ | |||||
身長 | 185cm | |||||
体重 | 79kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF (CMF) | |||||
利き足 | 左足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
2004-2005 | ロサリオ・セントラル | 1 | (0) | |||
2005-2006 | リーベル・プレート | 0 | (0) | |||
2007 | アトレティコ・ラファエラ | 19 | (2) | |||
2008 | マリティモB | 15 | (1) | |||
2008-2009 | インスティトゥート | 51 | (10) | |||
2009-2016 | QPR | 151 | (5) | |||
2013 | → パレルモ (loan) | 6 | (0) | |||
2016-2017 | ヘタフェ | 30 | (5) | |||
2017-2018 | クルス・アスル | 2 | (0) | |||
2018-2019 | マヨルカ | 9 | (0) | |||
2019 | → マルベーリャ (loan) | 16 | (0) | |||
2019-2020 | マルベーリャ | 12 | (0) | |||
2021-2022 | インスティトゥート | 22 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
2003 | アルゼンチン U-17 | 10 | (2) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
2004年5月4日のキルメスAC戦でリーグ戦デビュー。CAロサリオ・セントラルでの出場はこの1試合のみで、2007年にプリメーラB・ナシオナルのAMSDアトレティコ・デ・ラファエラへ移籍した。翌年1月にCSマリティモのBチームへ加入するが、半年後にはインスティトゥートACコルドバと契約し母国へ復帰した。
2009年7月7日、フットボールリーグ・チャンピオンシップのクイーンズ・パーク・レンジャーズFCへ3年契約で加入。2009年8月18日のブリストル・シティFCでデビューし、翌年4月3日に行われたシェフィールド・ウェンズデイFCとの試合で初ゴールを挙げた[1]。加入初年度でインパクトを残し、選手とサポーターによる2009-10シーズンのクラブ最優秀選手に選出。2010年10月5日には契約を2014年まで延長した[2]。翌シーズンにクラブはチャンピオンシップを制し、プレミアリーグ昇格メンバーの一員となった。
QPR加入時の移籍金はクラブレコードとなる350万ポンドといわれたが、当時のQPRが支払える額ではなかった。FAの調査により、アルゼンチン系でアメリカ合衆国に籍を置く株式会社TYPによる介入の下に行われた取引であることが判明、TYPがインスティトゥートに25万米ドルを支払い保有権を取得していた。2010年にTYPは100万米ドル(約61.5万ポンド)を支払うようQPRに要求しFAへ申し立てた。10月にクラブとの契約を延長するとTYPのオーナーであるペッピーノ・ティッリに対して20万ポンドの代理料が、翌年1月にはTYPへ61.5万ポンドが支払われた。第三者による選手保有は、カルロス・テベスのウェストハム・ユナイテッドFC移籍問題を受けてFAが禁止しており、QPRはこれに違反したとして2011年に処分を科されている。クラブは勝ち点剥奪の可能性もあったが、最終的に罰金処分に留まり昇格は承認された[3]。
トップレベルでのプレーとなった翌シーズンは、新加入のジョーイ・バートンと中盤のコンビを形成した。2012年1月7日に行われたFAカップのミルトン・キーンズ・ドンズFC戦 (1-1) でゲームキャプテンを務めたが、右足の前十字靭帯を断裂し途中交代。シーズン後半を棒に振ることとなった[4]。
母国やバルセロナでのリハビリを経て、2012年8月28日のリーグカップ・ウォルソールFC戦で復帰。フル出場を果たし3-0の勝利で飾った。続くリーグ戦・マンチェスター・シティFCとの試合でもスタメンに名を連ねた。9月23日のトッテナム・ホットスパーFC戦 (1-2) でボビー・ザモラの先制点に繋がるラストパスを供給し、2012-13シーズンで初アシストを記録した。
2013年1月31日、セリエAのUSチッタ・ディ・パレルモへシーズン終了まで期限付き移籍[5]。加入後すぐにトップチームに合流し、2月3日のアタランタBC戦 (1-2) でデビューしフル出場を果たした。しかしレギュラーの座を掴むには至らず、リーグ戦先発及び途中出場それぞれ3試合に留まった。
買い取りオプションは行使されずシーズンを終えQPRへ戻るが、クラブはチャンピオンシップへ降格。多くの選手が退団しチームが刷新される中で、残留した数少ない選手の一人であった[6]。2014-15シーズン開幕戦のシェフィールド・ウェンズデイ戦でスタメンとなり2-1で勝利した[7]。11月2日、ダービー・カウンティFCを迎えたホームゲームで、相手MFジョン・ユースタスのタックルを受けストレッチャーで搬送された[8]。2日後に左足の前十字靭帯損傷と診断され、約2年前と同様自身のシーズンを早々に終えた[9]。クラブは2014年5月24日、ウェンブリー・スタジアムでダービーとの昇格プレーオフを制しプレミアリーグ復帰を決めた。怪我を完治させスタンドで観戦していた自身は、89分にザモラが決勝点を挙げるとピッチで歓喜の輪に加わった。当時のクラブ在籍年数最長の選手となっていたが、7月2日にクラブとの契約を1年延長した[10]。プレミア復帰初戦となるハル・シティAFCとの試合でスタメン出場を果たした[11]。8月27日のFAカップのバートン・アルビオンFC戦で左足を負傷しレロイ・フェルと交代。鎮痛処置もせず自ら歩いてピッチを退いたが、検査の結果自身3度目となる前十字靭帯の故障であることが判明した[12]。2か月前に回復したにも関わらず、このシーズンも戦線を長期離脱することとなった。クラブのメディカルリーダーであるピーター・フロリダ・ジェイムスによると、靭帯の移植部が断裂していたという[13]。翌年8月にファーストチームへ舞い戻った。
2016年8月8日、セグンダ・ディビシオンのヘタフェCFへフリートランスファーで加入した[14]。
2017-18シーズンはリーガMXのクルス・アスルへ移籍したが、リーグ戦では2試合に途中出場し計13分のプレーに留まった[15]。
2018年1月23日にクラブとの契約を解除しRCDマヨルカへ加入、半年でスペインへ復帰した。セグンダ・ディビシオンBで首位を走るクラブにおいて今冬4番目の新加入選手として、2年間の延長オプション付きでシーズン終了までの契約を締結した[16]。
2019年1月、セグンダ・ディビシオンBのマルベーリャFCへシーズン終了までの期限付き移籍[17]。7月、マルベーリャFCへ完全移籍[18]。
2021年2月、インスティトゥートACコルドバに復帰[19]。
2022年2月19日、現役引退を表明した[20]。
2003年に開催されたFIFA U-17世界選手権のメンバーに選出されている。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.