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アルフレート・ベルンハルト・ユリウス・エルンスト・ヴェンネンベルク(Alfred Bernhard Julius Ernst Wünnenberg、1891年7月20日‐1963年12月30日)は、ナチス・ドイツの警察高官、また親衛隊(SS)の将軍。最終階級は親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)、武装親衛隊大将(General der Waffen-SS)、警察大将(General der Polizei)。
第二次世界大戦前期には第4SS警察装甲擲弾兵師団や第4SS戦車軍団を率いて勇戦した。後期には秩序警察(オルポ)長官代理を務めた。
ザールブルク出身。1913年2月に帝政ドイツ陸軍に入隊。第一次世界大戦開戦までに下士官に昇進した。第一次世界大戦では西部戦線で戦い、1915年には中尉に昇進し、歩兵中隊指揮官に任じられた。1916年からは飛行機部隊のパイロットに選ばれ、偵察パイロットとして活躍した。
戦後、上シレジアで義勇軍(フライコール)に参加した。1920年9月に軍を去った。軍での最終階級は大尉であった。その後、プロイセン州警察に入隊。1920年4月からエッセンの警察学校で警察犬の指導員となった。ポツダムの警察学校でもインストラクターとして勤務。1924年2月に警察犬部隊の司令官となった。1926年にはクレーフェルトの警察学校、さらに1928年にはケルンの警察学校へ配属された。1928年5月からベルリンの警察の管理部に勤めた。1929年に結婚し、娘を一人儲けた。
1933年5月に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党(党員番号222 2600)。1933年8月からビトムで警察守備隊の指揮官となった。1935年2月からザールブリュッケン、1937年10月からはブレーメンやマンハイムで勤務した。1938年12月にはシュトゥットガルトの警察監督官となった。
1939年10月に第3SS警察狙撃兵連隊の司令官となった。この際に親衛隊(SS)に入隊し(隊員番号405,898)、親衛隊大佐の階級を与えられた。対フランス戦やバルバロッサ作戦もこの連隊を率いて参加し、騎士鉄十字章を受章した。1941年11月5日にはヴァルター・クリューガーに代わって第4SS警察装甲擲弾兵師団の師団長に就任した。1942年4月には親衛隊少将・警察少将に昇進するとともに柏葉章を受章した。1943年6月10日に第4SS戦車軍団の軍団長となり、8月31日まで在職した。1943年9月1日から病となった秩序警察長官クルト・ダリューゲに代わって秩序警察長官代理となった[1]。この座はドイツの敗戦まで保持している。1945年5月、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは最後の意思でヴェンネンベルクを後継者に指名している[2]。
敗戦後の1946年、アメリカ軍に逮捕されてダッハウの米軍収容所で拘禁されたが、翌年には釈放された。1963年12月30日にクレーフェルトで死去した。
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