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アルジュベータ・マリエ・アーデルハイト・ドブジェンスカー・ズ・ドブジェニツ(Alžběta Marie Adelheid Dobřenská z Dobřenic, 1875年12月7日 ホチェボシュ - 1951年6月11日 シントラ)は、オーストリア=ハンガリー(二重帝国)のチェコ系貴族女性。旧ブラジル帝室に嫁ぎ、結婚後は夫の親族の住むフランスでの表記に合わせエリザベート(Élisabeth)と称した。
貴族院議員・宮中顧問官のヤン・ヴァーツラフ・ドブジェンスキー男爵とその妻の伯爵令嬢アルジュベータ・コトゥリンスカーの間の第4子・長女として、ボヘミア東部の両親の居城ホチェボシュ城で誕生[1]。ドブジェンスキー家は14世紀に遡る起源を持つ古いボヘミア貴族家門であった[2]。3人の兄と1人の弟がおり、弟は母の親族と養子縁組し母方の姓を名乗っている[1][3]。
1900年、廃位されたブラジル皇帝ペドロ2世の嫡孫で、二重帝国の陸軍士官として所属していたペドロ・デ・アルカンタラ皇子と知り合った、2人は結婚を望むようになるが、アルジュベータが王侯家出身でないため皇子の母の元皇太子イザベル皇女から認められなかった。家柄が単なる貴族であるばかりか爵位も男爵という下位だったため、イザベル皇女の要請を受けたウィーン宮廷は、1906年ドブジェンスキー家を伯爵に昇格させた[2]。やがて結婚は認められたが、貴賤結婚の扱いとなることが条件で、ペドロ皇子は結婚に先立ち自身と子孫の帝位継承権を放棄した[1][3]。2人は1908年にヴェルサイユで結婚し、間に2男3女をもうけた[1]。
死後、遺骸は夫やその親族と同じくブラジルのペトロポリス大聖堂に安置された。2010年、甥孫(長兄の孫)のヤン・ヨゼフ・ドブジェンスキーが聖ラザロ騎士団(オルレアン分派)の総長となったことが報じられた[4]。
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