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グレートブリテン王国の政治家 ウィキペディアから
初代ビヴァリー伯爵アルジャーノン・パーシー(Algernon Percy, 1st Earl of Beverley FSA、1750年1月21日 – 1830年10月21日)は、イギリスの貴族、政治家。トーリー党に属し、庶民院議員を務めたが[1]、体が弱く、度々南仏で療養したため、議会活動は少なかった[2]。
初代ノーサンバーランド公爵ヒュー・パーシーと妻エリザベス(第7代サマセット公爵アルジャーノン・シーモアの娘)の次男として、1750年1月21日にロンドンのセント・ジョージ・ハノーヴァー・スクエア教区で生まれた[1]。1756年から1763年までイートン・カレッジで教育を受けた後、1767年にグランドツアーに出た[2]。
体が弱く、1773年に医者の勧めを受けて南仏で療養した[2]。翌年夏に次期総選挙(1774年イギリス総選挙)に向けてノーサンバーランド選挙区で選挙活動が始まったときもまだ帰国しておらず、手紙でノーサンバーランド選挙区からの立候補を表明した[2]。ノーサンバーランドではそれまで父の初代ノーサンバーランド公爵が1議席、ジェントルマン層がもう1議席を指名していたが、1774年の総選挙では欲を出して2人を立候補させ、これに対し対立候補が2人登場したため激しい選挙戦となった[3]。結果はそれまでと同じく公爵とジェントルマンの候補がそれぞれ1人当選し、うちアルジャーノンは1,235票(得票数1位)だった[3]。もっとも、アルジャーノン自身は選挙期間中ずっと海外に滞在していたとされた[2]。この結果は公爵とジェントルマン層の妥協が望まれたことを示し、以降の1780年、1784年イギリス総選挙では1774年の当選者が無投票で再選した[3]。また1780年の総選挙では父が新しく購入したビア・アルストン選挙区でも当選したが、引き続きノーサンバーランドの代表として議員を務めた[4]。
庶民院議員としてのアルジャーノンはノース内閣を支持し、演説の記録は1度だけだった[2]。体が弱い状況は続き、1782年3月の兄ヒューの手紙によれば健康の悪化により南仏のニースでその年の冬を過ごした[2]。シェルバーン伯爵のアメリカ独立戦争予備講和条約、チャールズ・ジェームズ・フォックスの東インド法案(イギリス東インド会社の規制法案)といった党派政治が強く出た採決には投票しなかったが、1784年初に作成された庶民院議員リストでは第1次小ピット内閣を支持するとされた[2]。
1784年、父が特別残余権(special remainder)のつくロヴェイン男爵位を与えられた[1]。この出来事について、アルジャーノンの兄は政治家ジョージ・ローズへの手紙で「弟が強く望んだものとは知っているが、私自身はそれが重要とは思えない」と評した[2]。1786年6月6日に父が死去すると、兄が公爵位を継承したが、ロヴェイン男爵位は特別残余権に基づきアルジャーノンが継承した[1]。その後、1790年11月2日にグレートブリテン貴族であるヨーク州におけるビヴァリー伯爵に叙された[1][5]。
1803年にナポレオン戦争が勃発すると、数年間(少なくとも1808年まで)フランスで投獄され、息子が一時的にビヴァリー伯爵家家長となった[6]。
1820年1月13日、ロンドン考古協会フェローに選出された[1]。
1830年10月21日にニース近郊で死去、セント・メリルボーン教区教会に埋葬された[1]。息子ジョージが爵位を継承した[1]。
1775年6月8日、イザベラ・スザンナ・バレル(1750年12月19日 – 1812年1月24日、ピーター・バレルの娘)と結婚[1]、14人の子女をもうけた[7]。
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