アルジャーノン・パーシー (初代ビヴァリー伯爵)

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アルジャーノン・パーシー (初代ビヴァリー伯爵)

初代ビヴァリー伯爵アルジャーノン・パーシーAlgernon Percy, 1st Earl of Beverley FSA1750年1月21日1830年10月21日)は、イギリスの貴族、政治家。トーリー党に属し、庶民院議員を務めたが[1]、体が弱く、度々南仏で療養したため、議会活動は少なかった[2]

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ジェームズ・ミラー英語版による肖像画、1777年から1780年ごろ。

生涯

要約
視点

初代ノーサンバーランド公爵ヒュー・パーシーと妻エリザベス英語版第7代サマセット公爵アルジャーノン・シーモアの娘)の次男として、1750年1月21日にロンドンセント・ジョージ・ハノーヴァー・スクエア英語版教区で生まれた[1]。1756年から1763年までイートン・カレッジで教育を受けた後、1767年にグランドツアーに出た[2]

体が弱く、1773年に医者の勧めを受けて南仏で療養した[2]。翌年夏に次期総選挙(1774年イギリス総選挙)に向けてノーサンバーランド選挙区英語版で選挙活動が始まったときもまだ帰国しておらず、手紙でノーサンバーランド選挙区からの立候補を表明した[2]。ノーサンバーランドではそれまで父の初代ノーサンバーランド公爵が1議席、ジェントルマン層がもう1議席を指名していたが、1774年の総選挙では欲を出して2人を立候補させ、これに対し対立候補が2人登場したため激しい選挙戦となった[3]。結果はそれまでと同じく公爵とジェントルマンの候補がそれぞれ1人当選し、うちアルジャーノンは1,235票(得票数1位)だった[3]。もっとも、アルジャーノン自身は選挙期間中ずっと海外に滞在していたとされた[2]。この結果は公爵とジェントルマン層の妥協が望まれたことを示し、以降の1780年1784年イギリス総選挙では1774年の当選者が無投票で再選した[3]。また1780年の総選挙では父が新しく購入したビア・アルストン選挙区英語版でも当選したが、引き続きノーサンバーランドの代表として議員を務めた[4]

庶民院議員としてのアルジャーノンはノース内閣を支持し、演説の記録は1度だけだった[2]。体が弱い状況は続き、1782年3月の兄ヒューの手紙によれば健康の悪化により南仏のニースでその年の冬を過ごした[2]シェルバーン伯爵アメリカ独立戦争予備講和条約、チャールズ・ジェームズ・フォックスの東インド法案(イギリス東インド会社の規制法案)といった党派政治が強く出た採決には投票しなかったが、1784年初に作成された庶民院議員リストでは第1次小ピット内閣を支持するとされた[2]

1784年、父が特別残余権(special remainder)のつくロヴェイン男爵位を与えられた[1]。この出来事について、アルジャーノンの兄は政治家ジョージ・ローズ英語版への手紙で「弟が強く望んだものとは知っているが、私自身はそれが重要とは思えない」と評した[2]。1786年6月6日に父が死去すると、兄が公爵位を継承したが、ロヴェイン男爵位は特別残余権に基づきアルジャーノンが継承した[1]。その後、1790年11月2日にグレートブリテン貴族であるヨーク州におけるビヴァリー伯爵に叙された[1][5]

1803年にナポレオン戦争が勃発すると、数年間(少なくとも1808年まで)フランスで投獄され、息子が一時的にビヴァリー伯爵家家長となった[6]

1820年1月13日、ロンドン考古協会フェローに選出された[1]

1830年10月21日にニース近郊で死去、セント・メリルボーン教区教会英語版に埋葬された[1]。息子ジョージが爵位を継承した[1]

家族

要約
視点

1775年6月8日、イザベラ・スザンナ・バレル英語版(1750年12月19日 – 1812年1月24日、ピーター・バレル英語版の娘)と結婚[1]、14人の子女をもうけた[7]

  • シャーロット英語版(1776年6月3日 – 1862年11月26日) - 1795年7月25日、第3代アシュバーナム伯爵ジョージ・アシュバーナムと結婚、子供あり[8]
  • エリザベス(1777年3月31日 – 1779年4月28日[7]
  • ジョージ(1778年6月22日 – 1867年8月21日) - 第2代ビヴァリー伯爵、第5代ノーサンバーランド公爵[9]
  • アルジャーノン英語版(1779年8月19日 – 1833年8月10日[7]) - 外交官[10]
  • 死産(1781年5月[7]
  • スザンナ・エリザベス(1782年12月29日[7] – 1847年4月7日) - 生涯未婚[10]
  • ヒュー英語版(1784年1月29日 – 1856年2月5日) - ロチェスター主教英語版カーライル主教英語版[11]。1806年5月19日、メアリー・マナーズ=サットン(Mary Manners-Sutton、1831年9月4日没、カンタベリー大主教チャールズ・マナーズ=サットン英語版の娘)と結婚、子供あり。1840年2月3日、メアリー・ホープ=ジョンストン(Mary Hope-Johnstone、1851年11月22日没、海軍軍人ウィリアム・ホープ=ジョンストン英語版の娘)と再婚、子供なし[10]
  • ジョスリン英語版(1784年1月29日 – 1856年10月19日) - 海軍軍人、庶民院議員。1820年12月9日、ソフィア・エリザベス・ウォルハウス(Sophia Elizabeth Walhouse、1875年12月13日没、モアトン・ウォルハウスの娘)と結婚、子供あり[10]
  • ヘンリー英語版(1785年9月14日 – 1825年4月15日) - 陸軍軍人、庶民院議員、生涯未婚[12]
  • エミリー・シャーロット(1786年11月9日[7] – 1877年5月22日) - 1808年7月25日、アンドルー・モーティマー・ドラモンド(Andrew Mortimer Drummond、1864年6月1日没)と結婚、子供あり[10]
  • ウィリアム・ヘンリー英語版(1788年3月24日 – 1855年10月5日) - 海軍軍人、庶民院議員、生涯未婚[13]
  • フランシス・ジョン(1790年5月1日 – 1812年8月23日[7]
  • チャールズ(1794年3月4日 – 1870年10月11日) - 庶民院議員。1822年3月20日、アン・キャロライン・グレートヒード(Ann Caroline Greatheed、1805年ごろ – 1882年6月8日、バーティー・グレートヒードの庶出の娘)と結婚、1女をもうけた[10][14]
  • ルイーザ・マーガレット(1796年7月 – 1796年8月19日[7]

出典

外部リンク

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