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イマーム・アリー・ムーサー・アッ=リダー(アラビア語: علي بن موسى الرضا Imām ˤAlī ibn-Mūsā al-Riđā; 766年1月1日 - 818年6月6日 [1] は、シーア派・十二イマーム派の第8代イマーム。名はアリー・イブン・ムーサー・イブン・ジャアファル。ペルシア語ではエマーム・レザーとして知られる。
アリー・アッ=リダーはシーア派7代イマーム・ムーサー・イブン・ジャアファル・イブン・ムハンマド・アル=カーズィム(ペルシア語ではエマーム・ムーサー・カーゼム)とウンム・アル=バニーン・ナジュマーのあいだにマディーナで生まれた。ちょうど祖父ジャアファル・アッ=サーディクの死の一月後にあたり、アリーは父の手で教育された。
799年、アリー35歳のとき、父が没しイマームを継いだ。アリーは時のアッバース朝カリフ・ハールーン・アッ=ラシードから好ましく扱われることはなく、マディーナの人々もアリーのもとを訪れ、学ぶことを禁止された。ハールーン・アッ=ラシードはアリーの殺害さえ試みたものの、これは不首尾に終わっている。
ハールーン・アッ=ラシードの死後、アッバース朝の支配権を巡って彼の二人の息子間で内戦がはじまる。息子の一方のアミーンはアラブ人の母を持つためアラブ人の支持を得て、一方異母兄マアムーンはペルシア人の母を持ち、ペルシア系の人々の支持を受けてのものであった。マアムーンはペルシア系の人々はハーシム家に対し好意的であると考え、アリーに対し、ペルシアに赴き謁見するよう命じた。アリー・アッ=リダーは妻と一人息子ムハンマド・タキーを残して、マルヴに立った。
アミーンを倒すと、マアムーンはアリー・アッ=リダーを自身の後継者に指名した。シーア派からの支持を得ようとしてのものであったが、このカリフ継承はアリー・アッ=リダーがマアムーン死亡時に存命であることが条件となっていた。マアムーンはアッバース朝の黒旗を初代イマーム・アリー以来のアリー家伝統の緑色へと変更することさえ行っている。
アリー・アッ=リダーはしかしマアムーンよりも早く818年5月26日、マアムーンとともにトゥースにあったときに亡くなった。後世の学者には、これをマアムーンによる毒殺であると見る者もおり、シーア派ではこの見解をとってアリーを殉教者と考える。アリー・アッ=リダーの遺骸が葬られた地、今日の都市マシュハドの名は「マシュハデ・レザー」(リダーの殉教地)に由来するものであり、巨大なアリー・アッ=リダー廟とその複合施設(アースターネ・クドゥス)を持ち、現在でも多くの巡礼を集める地となっている。
イマーム・リダー(彼の上に平安あれ)が言った。
「アッラーのために愛し、アッラーのために嫌い、アッラーのために喜捨を差し出す者は、すなわち信仰が完璧な人々の一人である」 [2]
「過剰な富の蓄えは五つの特徴によるものである。度を越えた欲深さ、大きな期待、非常に強い貪欲、血族との縁切り、来世より現世を好む」[3]
「ムスリム信徒は、三つの美徳をもたなければ真の信者ではない。主の作法、預言者の作法、イマームの作法である。主の作法とは、自分の秘密を隠すこと。ゆえに、偉大なるアッラーは仰せになった。『かれだけが幽玄界を知っておられ、その秘密を誰にも漏らされはしない。かれの御気に召した使徒以外には。』(聖クルアーン72章26、27節) 預言者の作法とは、人々に応じること。至大至高のアッラーは預言者に、人々に親切にするよう命じられた。かれは仰せになった。『赦し、善を命じ、無知の者に背を向けなさい』 イマームの作法とは、良い日にも悪い日にも忍耐すること。偉大なるアッラーは仰せになった。『困苦と苦境には、よく耐え忍ぶ者』(聖クルアーン2章177節)」[4]
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