アマレク人

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アマレク人は、古代パレスチナ遊牧民族。後にユダヤ人に吸収されて消滅した。

旧約聖書に於けるアマレク人

『創世記』第36章では「(ヤコブの兄)エサウ(エドム人の祖とされる人物)とヘト人出自の妻アダの息子エリパズが、テムナという側女との間に作った息子。」としてアマレクという名前が出てくる[1]が、以後の個所では基本的にエドム人扱いはされず『申命記』では23章で「エドム人を嫌うな(23:8)」とあるが、その2章後に「アマレク人への恨みを忘れるな(25:17-19)」と別の扱いを受けている。

以後基本的にイスラエル民族の敵とされており、聖絶の対象として女子供も含めて無慈悲に虐殺される場面も存在している。

  • 『出エジプト記』17章8節ではエジプトから出てきたモーセ一行と最初に攻撃してきた相手とされており、これがアマレク人が主の怒りを受けた行為だったとしている[2]。この時モーセが山に登ってアロンとフルに支えられて神に祈り、ヨシュアが兵士らと共に戦い、接戦の末、イスラエル軍が勝利した。
  • サムエル記』上15章1-11節によれば、イスラエルの初代の王サウルが、神の命令に違反して、アマレク人を全滅[3]させる際、彼らの王アガクを助けたことが神の怒りを招き、彼の王権は失墜したと記述している。これについてフラウィウス・ヨセフスは『ユダヤ古代誌』VI巻7章2節[4]でサウルがアマレク人の王アガクを捉えた際生かしておいたことについて「普通なら憐れみをかけてしかるべき乳飲み子も殺さねばならない状況で、美しさに感心して災いの元になった王を生かすのは情けではなく不適切な行為。」と解説している。
  • エステル記』に出てくるアルタクセルクセス王に仕えていたハマン(アマン)という男は『エステル記』本編ではハマンは「アガグ人」(3:1)や「マケドニア人」(ギリシャ語訳のみ、ヘブライ語版の8:12と13の間に入る)と呼ばれているが、ヨセフスは『ユダヤ古代誌』XI巻6章5節ではハマンを「アマレク人の末裔」として、この関係で「ハマンは(ユダヤ人の)モルデカイをよく思っていなかった」としている[5]

脚注

関連項目

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