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アッシュル・ニラリ3世(Aššur-nerari III、maš-šur-ERIM.GABA、「アッシュル神は我が助け」[1])はアッシリアの王(在位:前1203年頃-前1198年頃、または前1193年頃-前1187年頃)。トゥクルティ・ニヌルタ1世の孫であり、『アッシリア王名表』の複数のバージョンでアッシュール・ナディン・アプリの跡を継いで王となったとされる。アッシュル・ナディン・アプリはアッシュル・ニラリ3世のおじ、または父親であり、トゥクルティ・ニヌルタ1世に対する陰謀に参加した人物である。この陰謀の結果トゥクルティ・ニヌルタ1世は殺害された。
アッシュル・ニラリ3世 | |
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アッシリア王 | |
在位 | 前1193年頃-前1187年頃 |
父親 | トゥクルティ・ニヌルタ1世 |
『アッシリア王名表』は重要なコピーが3つ(『アッシュル王名表』『コルサバド王名表』『SDAS王名表』)見つかっている。そしてアッシュル・ニラリ3世の父名と前王の名はそれぞれのバージョンで一致しない。『アッシュル王名表』によれば[i 1]、アッシュル・ニラリ3世はアッシュル・ナディン・アプリの息子であった。そして彼の前の王は『アッシュル王名表』と『コルサバド王名表』では[i 2]、このアッシュル・ナディン・アプリである。だが、『コルサバド王名表』と『SDAS王名表』は両者ともアッシュル・ニラリ3世の父親をアッシュル・ナツィル・アプリ(Aššur-naṣir-apli、アッシュルナツィルパル)としている。そして『SDAS王名表』のみは前王の名前もアッシュル・ナツィル・アプリである[2] 。3つの王名表のバージョン全てが彼の在位期間について一致しており、実証性に乏しいものの6年間とされている。彼の在位期間は前王の3、4年の短い治世の後に続いており、これは彼が王位に就いたときかなり若かったことと、彼の大宰相(grand vizier)であるイリ・パダの卓越した地位を示しているかもしれない。彼の名前はまた、『アッシリア王名表』の4つ目のバージョンの小さな断片にも登場している[i 3]。Urad-Šerūaと家族のアーカイブから見つかった借用金の円錐形タブレットと[i 4]、シリアのテル・タバンから発掘されたタブレット[i 5]の日付が、即位後の最初の年(即位日の翌年である通年の年)である可能性が高いリンム・アッシュル・ニラリの年である。そして、リンム・アダド・バン・カラ(Adad-bān-kala)の年は恐らくアッシュル・ニラリ3世の治世か、または彼の後継者の治世である[3]。
ある極めて無礼な手紙の断片[i 6]が大英博物館のクユンジク・コレクションとして保存されている。バビロン王アダド・シュマ・ウツルから二人の支配者、即ちアッシュル・ニラリ3世とイリ・パダに宛てられたもので、彼らは「アッシリアの王」とされている。恐らくイリ・パダが後のアッシリア王ニヌルタ・アピル・エクル(在位:前1182年頃-前1180年)の父であったため、イリ・パダに強化されたステータスを与えるためにこの手紙はコピーされアッシリアのアーカイブで保存された。
トゥクルティ・ニヌルタ1世の別の息子エンリル・クドゥリ・ウツル(IIlil-kudurrī-uṣur、おそらくはアッシュル・ニラリ3世のおじ)が優位を占めたことで、アッシュル・ニラリ3世は完全に、おそらくは暴力的に排除された。彼の大宰相でありアッシリアの「王」の教師かつ同志であったイリ・パダの人生とキャリアはこの時に、あるいはそのすぐ後に終わりを告げたと思われる。この時代の出来事を明らかにすることができるかもしれないアーカイブの記録は利用不能である。主導的な歴史家Itamar Singerは「残念ながら、テル・サビ・アブヤドから(1997年-1998年に)発見された中アッシリア時代の文書を(含む)...それぞれ400枚ほどのタブレットを持つ前13世紀の2つの重要なアーカイブが未だ未公開のままである。」と述べている[訳語疑問点][4]。
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