1974年エチオピアクーデター
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1974年9月12日、エチオピア帝国皇帝ハイレ・セラシエ1世が、空軍・警察・領土軍によって退陣に追い込まれるクーデターが発生。これを1974年エチオピアクーデター(1974ねんエチオピアクーデター)と呼ぶ。その後、ソビエト連邦の援助のもと、左派組織デルグのもとで社会主義国家である社会主義エチオピアが建国。その後、エチオピア人民民主共和国といった形で社会主義の形を保っていたが、ソ連崩壊後の1991年に完全に社会主義時代は終焉した。
概要 時, 場所 ...
1974年エチオピアクーデター | |||||||
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冷戦及びエチオピア革命中 | |||||||
1974年9月12日、廃位を受け、ジュビリー宮殿(英語版)から連行されるハイレ・セラシエ1世。クーデターを行ったデルグはこれにより暫定的な権力を持つ。 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
エチオピア帝国 | 空軍・警察・領土軍 | ||||||
指揮官 | |||||||
ハイレ・セラシエ1世 ミカエル・イムル(英語版) |
アマン・アンドム アトナフ・アバテ(英語版) メンギスツ・ハイレ・マリアム |
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1974年2月、エチオピア帝国陸軍(英語版)所属部隊の反乱が発生し、低賃金などに対する憤りが爆発した。これらを発端としてエチオピア革命が始まる。1974年6月には空軍内で暫定軍事行政評議会、通称デルグが成立した。評議会は急成長しハイレ・セラシエ1世に指名された首相エンデルカチュ・マコンネン(英語版)を打倒できるほどの力を持った。これらクーデターによる皇帝の退位に対して、ソロモン朝(英語版)の皇族や、ハイレ・セラシエ1世の側近は、認められてはいないが皇帝となったアムハ・セラシエ1世と共にロンドンに亡命した。1975年3月27日、正式にデルグは帝政の廃止及びマルクス・レーニン主義を主軸とした社会主義国家の建国、それに伴う個人資産の国有化を宣言した。同年8月27日ハイレ・セラシエ1世は死亡する。これには諸説あり、社会主義エチオピアの命令により絞殺された説や、前立腺手術によって引き起こされた自然死の説がある。