1811年委員会計画
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1811年委員会計画(1811ねんいいんかいけいかく、英: Commissioners' Plan of 1811)は、ニューヨーク市マンハッタンのハウストン通り以北における街路網の原案で、今日のマンハッタンに配置されている無数に連続した短冊形の街区(方格設計)を定義した都市計画である。これは「ニューヨーク市の発展において最も重要な文章」とされており[1]、計画は「統制と均衡、反自然といった共和主義的性格」を包含する傾向にある[2]。策定した委員会によれば「美観並びに規則性と利便性」の結合を理念としている[2]。
元々はニューヨーク市議会が、14丁目からワシントンハイツまでの均衡ある開発と土地の供給を目的に発議したことがきっかけであるが、地方自治制度の問題や地権者からの反対によって実現させることができなかったため、要請に基づいてニューヨーク州議会が引き継いだものである。それを受けた州議会は1807年に全権を持たせた委員を任命し、1811年に原案の答申に至る。
委員は、アメリカ建国の父であるガバヌーア・モリス、元上院議員で弁護士のジョン・ラザファード(英語版)、州調査・鑑定技監のシメオン・デ・ウィット(英語版)である。また、この委員会の調査鑑定主任であるジョン・ランデル・ジュニア(英語版)は弱冠20歳の任命であった。
この委員会計画は「グリッドプラン」と呼ばれる方格設計の最も著名な実行例であるとともに、後世の評価においては多くの歴史家によって遠大かつ先見性を有する計画であったと評価されている。一方で、道路配置の不規則な古来の都市に比べ、景観が画一的で単調なものになったという批判も当初からあるものの、近年の都市計画家からはより肯定的にみられている[3]。
このように無数に連続した格子状の街路であるが、一部で公共用地に利用されている切れ目がある。マディソン・スクエア公園の前身であり、23丁目と33丁目の間にあったグランド・パレード、同様に四角形をしたブルーミングデール、ハミルトン、マンハッタン、ハーレム、卸売市場、貯水池といった用地がそれにあたる[4][2][5]。また、東西を8番街から5番街まで、南北を59丁目から110丁目までを占める巨大都市型緑地「セントラル・パーク」は、この計画時点では想定されておらず、他の地区と同様に格子状の道路が建設された。