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陳朝初代皇帝。陳承の次男 ウィキペディアから
陳太宗(ちんたいそう、ベトナム語:Trần Thái Tông(チャン・タイ・トン))は、陳朝の初代皇帝(在位:1225年 - 1258年)。陳朝の実質的な創始者である陳守度の甥。太宗は廟号である。名は陳 煚(ベトナム語:Trần Cảnh / 陳煚)。祖父は陳李。父は陳承。叔父は陳嗣慶。兄は安生王陳柳。
祖先は福建、もしくは桂州からの移住民である[3][4][5][6][7][8]。建嘉8年(1218年)、太宗は陳承の次男として生まれる。母は黎氏。有道2年10月(1225年11月頃)に宮中に入内[9]。李朝の女帝の昭皇に見初められ、遊び友達となると、まもなく結婚した。同年12月12日(1226年1月11日)、陳守度や馮佐周の工作により、昭皇から禅譲され、わずか8歳で帝位に就くこととなった[10]。しかし、皇帝が幼年であることから、実際の政務は陳守度が執った。建中2年1月(1226年2月頃)、昭皇を后として立て、昭聖皇后と改めた[11]。
建中5年(1229年)、宋に使者を派遣し、安南国王に封ぜられる[12]。成人すると親政を開始し、科挙による有能な人材登用や諸制度の整備など、陳朝の土台を固める事に務めた。元豊7年(1257年)11月には兀良合台の率いるモンゴル軍が侵攻し、12月には紅河北岸の「平厲源」の地で蒙越両軍が衝突したが、太宗は自ら出陣した[13]。しかし、モンゴル軍が紅河を渡河すると、国都タンロン付近の瀘江口、さらに天幕口に撤退した。一時タンロンを占領されたが、間もなくモンゴル軍が撤退したため、ベトナム軍は追撃してこれを打ち破った[14]。
元豊8年(1258年)、長男の聖宗に譲位して太上皇となったが、引続き政治を執り行った[15]。同年、使者をモンゴルに派遣し、国交を開いた[16]。このときのベトナム君主は、日煚(太宗)の長男の「光昺」と記録されているが、光昺は太宗の別名であり[15]、モンゴルと戦った君主とは別人が位に就いた形をとり、国交を開いたとされる[16]。
モンゴルでクビライが即位すると、翌年の紹隆4年(1261年)に使者を派遣。三年一貢を申し入れ、元朝より「光昺」として安南国王に封ぜられた[17]。
治政の傍ら、禅を修行し、譲位後に修行に打ち込み、禅に関する著作も著した。
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