生涯
寛文2年(1662年)、前田家家老長連頼の嫡男元連の長男として生まれる[1]。寛文7年(1667年)8月、父元連が浦野事件に連座して、藩主前田綱紀の命で廃嫡となったため、祖父連頼の継嗣となる[1]。
寛文11年(1671年)10月、祖父連頼の死去により嫡孫承祖し、3万3000石の相続が許された[1]。同時に鹿島半郡を藩に収められ、代わって他の家臣同様に加賀藩領内に散在する采地を与えられ、居を金沢に移した。長家は、長連龍が織田信長から鹿島半郡を与えられた経緯から、加賀藩の中で例外的に給人の知行地支配が許されていたが、これによりその特権を喪失することとなった。新しい采地は改作法が導入されており、実収が大幅に減ることを考慮され、弟連房にも別に新知1000石が与えられた[1][3]。
貞享2年(1685年)3月、藩主綱紀の養女恭姫を娶り、1000石の化粧田を授かる[1]。貞享3年(1686年)11月13日、人持組頭(七手頭)となる。元禄6年(1693年)、諱を時連から尚連に改めた。これは、主君前田家の先祖菅原道真を大宰府に左遷させた藤原時平の「時」の字を忌んだためである。元禄9年(1696年)正月、従五位下大隅守に叙任[1]。同年8月11日、御大老に任じられる。
脚注
参考文献
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