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神奈川県の市 ウィキペディアから
鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県の南部に位置する市。人口は約17万人。三浦半島西側の付け根にあり、歴史的都市鎌倉が市域の中心にある。
鎌倉市は横浜市の南西、藤沢市の東、逗子市の北西に位置し、南は相模湾に面している。年間平均気温は16.9℃。三方が低い山で囲まれ、海に面する地である。かつては自然の要塞を活かして鎌倉幕府が置かれ政権の要の地となり、日本史の時代区分でもある「鎌倉時代」の由来にもなった。今日では旧腰越町や旧大船町など、いわゆる「三方を山に囲まれた鎌倉」の外側に位置する地域も市内に含まれる。鎌倉は地域内に多くの歴史遺跡を持つ「古都」であるが、後述の通り室町時代中期以降に衰退したため「都市・鎌倉」としての歴史は連続していない。ゆえに中世以来の建造物は限られる。
江戸時代後期になると、地域内の寺社が多くの参詣客を集めるようになるが、明治初期の段階でも鎌倉大仏(高徳院)や長谷寺を擁する長谷(はせ)地区に都市的な集落が分布するのみで、現在の鎌倉市の中心市街地は形成されていなかった。明治初期、現鎌倉市域を含む鎌倉郡を管轄する郡役所は戸塚(現在の横浜市戸塚区)に置かれた。
明治中期以降、保養・別荘地として、昭和以降に観光地として改めて「都市・鎌倉」の発展を見たのである。横須賀線の開業により都内からのアクセスが向上し、戦前には多くの文学者が鎌倉に移住し、彼らは「鎌倉文士」と呼ばれた[1]。市内の55%が都市計画法における風致地区に指定されており[2]、鎌倉山など市内には高級住宅街が点在する[3]。古都保存法における指定都市でもあり、景観保護の点から土地利用に制限がかけられている[4]。また、江ノ島電鉄線(江ノ電)沿線には由比ヶ浜や七里ヶ浜などの有名海水浴場が所在し、隣接する藤沢市などの湘南地区や逗子・葉山とともにマリンスポーツが盛んなエリアである[5]。
市内を流れる河川は主な物で三本。全て二級河川である。これに支流や準用河川が加わる。
海域は市の南側に広がっている。南海トラフ巨大地震が発生した際には、最大8mの津波が到達することが予想されている。これは神奈川県下の市町村で最も高い値(逗子市と同値)である[6]。
鎌倉市内では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。
町名 | 町名の読み | 設置年月日 | 住居表示実施年月日 | 住居表示実施直前の町名 | 備考 |
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扇ガ谷一丁目 | おうぎがやつ | 1889年4月1日 | 1966年4月1日 | ||
扇ガ谷二丁目 | 1889年4月1日 | 1966年4月1日 | |||
扇ガ谷三丁目 | 1889年4月1日 | 1966年4月1日 | |||
扇ガ谷四丁目 | 1889年4月1日 | 1966年4月1日 | |||
大町一丁目 | おおまち | 1939年4月1日 | 1966年4月1日 | ||
大町二丁目 | 1939年4月1日 | 1966年4月1日 | |||
大町三丁目 | 1939年4月1日 | 1966年4月1日 | |||
大町四丁目 | 1939年4月1日 | 1966年4月1日 | |||
大町五丁目 | 1939年4月1日 | 1966年4月1日 | |||
大町六丁目 | 1939年4月1日 | 1966年4月1日 | |||
大町七丁目 | 1939年4月1日 | 1966年4月1日 | |||
御成町 | おなりまち | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | ||
極楽寺一丁目 | ごくらくじ | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | ||
極楽寺二丁目 | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | |||
極楽寺三丁目 | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | |||
極楽寺四丁目 | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | |||
小町一丁目 | こまち | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | ||
小町二丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | |||
小町三丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | |||
材木座 | ざいもくざ | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | ||
坂ノ下 | さかのした | 1889年4月1日 | 1972年2月1日 | ||
笹目町 | ささめちょう | 1965年4月1日 | 1965年4月1日 | ||
佐助一丁目 | さすけ | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | ||
佐助二丁目 | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | |||
十二所 | じゅうにそ | 1870年4月1日 | 1870年4月1日 | ||
浄明寺一丁目 | じょうみょうじ | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | ||
浄明寺二丁目 | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | |||
浄明寺三丁目 | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | |||
浄明寺四丁目 | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | |||
浄明寺五丁目 | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | |||
浄明寺六丁目 | 1967年4月1日 | 1967年4月1日 | |||
二階堂 | にかいどう | 1939年4月1日 | 未実施 | ||
西御門一丁目 | にしみかど | 1968年1月1日 | 1968年1月1日 | ||
西御門二丁目 | 1968年1月1日 | 1968年1月1日 | |||
長谷一丁目 | はせ | 1972年10月1日 | 1972年10月1日 | ||
長谷二丁目 | 1972年10月1日 | 1972年10月1日 | |||
長谷三丁目 | 1972年10月1日 | 1972年10月1日 | |||
長谷四丁目 | 1972年10月1日 | 1972年10月1日 | |||
長谷五丁目 | 1972年10月1日 | 1972年10月1日 | |||
由比ガ浜一丁目 | ゆいがはま | 1965年2月1日 | 1965年2月1日 | ||
由比ガ浜二丁目 | 1964年2月1日 | 1964年2月1日 | |||
由比ガ浜三丁目 | 1964年2月1日 | 1964年2月1日 | |||
由比ガ浜四丁目 | 1964年2月1日 | 1964年2月1日 | |||
雪ノ下一丁目 | ゆきのした | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | ||
雪ノ下二丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | |||
雪ノ下三丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | |||
雪ノ下四丁目 | 1966年4月1日 | 1966年4月1日 | |||
雪ノ下五丁目 | 1991年4月1日 | 1991年4月1日 | |||
稲村ガ崎一丁目 | いなむらがさき | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | ||
稲村ガ崎二丁目 | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | |||
稲村ガ崎三丁目 | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | |||
稲村ガ崎四丁目 | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 | |||
稲村ガ崎五丁目 | 1969年2月1日 | 1969年2月1日 |
町名 | 町名の読み | 設置年月日 | 住居表示実施年月日 | 住居表示実施直前の町名 | 備考 |
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腰越一丁目 | こしごえ | 1966年9月1日 | 1966年9月1日 | ||
腰越二丁目 | 1966年9月1日 | 1966年9月1日 | |||
腰越三丁目 | 1966年9月1日 | 1966年9月1日 | |||
腰越四丁目 | 1966年9月1日 | 1966年9月1日 | |||
腰越五丁目 | 1966年9月1日 | 1966年9月1日 | |||
七里ガ浜一丁目 | しちりがはま | 1972年1月10日 | 1972年1月10日 | ||
七里ガ浜二丁目 | 1972年1月10日 | 1972年1月10日 | |||
七里ガ浜東一丁目 | しちりがはまひがし | 1972年1月10日 | 1972年1月10日 | ||
七里ガ浜東二丁目 | 1972年1月10日 | 1972年1月10日 | |||
七里ガ浜東三丁目 | 1972年1月10日 | 1972年1月10日 | |||
七里ガ浜東四丁目 | 1972年1月10日 | 1972年1月10日 | |||
七里ガ浜東五丁目 | 1972年1月10日 | 1972年1月10日 | |||
津 | つ | 1960年4月1日 | 未実施 | ||
津西一丁目 | つにし | 1970年1月1日 | 1970年1月1日 | ||
津西二丁目 | 1970年1月1日 | 1970年1月1日 | |||
西鎌倉一丁目 | にしかまくら | 1968年6月1日 | 1968年6月1日 | ||
西鎌倉二丁目 | 1968年6月1日 | 1968年6月1日 | |||
西鎌倉三丁目 | 1968年6月1日 | 1968年6月1日 | |||
西鎌倉四丁目 | 1968年6月1日 | 1968年6月1日 |
町名 | 町名の読み | 設置年月日 | 住居表示実施年月日 | 住居表示実施直前の町名 | 備考 |
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梶原一丁目 | かじわら | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 梶原 | |
梶原二丁目 | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 梶原 | ||
梶原三丁目 | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 梶原 | ||
梶原四丁目 | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 梶原 | ||
梶原五丁目 | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 梶原 | ||
梶原 | 1889年4月1日 | 未実施 | 大字梶原は住居表示未実施 | ||
鎌倉山一丁目 | かまくらやま | 1985年8月5日 | 1985年8月5日 | 笛田・腰越・津 | |
鎌倉山二丁目 | 1985年8月5日 | 1985年8月5日 | 笛田・腰越・津 | ||
鎌倉山三丁目 | 1985年8月5日 | 1985年8月5日 | 笛田・腰越・津 | ||
鎌倉山四丁目 | 1985年8月5日 | 1985年8月5日 | 笛田・腰越・津 | ||
上町屋 | かみまちや | 1889年4月1日 | 未実施 | ||
手広一丁目 | てびろ | 1889年4月1日 | 2006年11月6日 | 手広 | |
手広二丁目 | 1889年4月1日 | 2006年11月6日 | 手広 | ||
手広三丁目 | 1889年4月1日 | 2006年11月6日 | 手広 | ||
手広四丁目 | 1889年4月1日 | 2006年11月6日 | 手広 | ||
手広五丁目 | 1889年4月1日 | 2006年11月6日 | 手広 | ||
手広六丁目 | 1889年4月1日 | 2006年11月6日 | 手広 | ||
手広 | 1889年4月1日 | 未実施 | 大字手広は住居表示未実施 | ||
寺分一丁目 | てらぶん | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 寺分 | |
寺分二丁目 | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 寺分 | ||
寺分三丁目 | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 寺分 | ||
寺分 | 1889年4月1日 | 未実施 | 大字寺分は住居表示未実施 | ||
常盤 | ときわ | 1889年4月1日 | 未実施 | ||
笛田一丁目 | ふえだ | 1889年4月1日 | 2000年5月8日 | 笛田 | |
笛田二丁目 | 1889年4月1日 | 2000年5月8日 | 笛田 | ||
笛田三丁目 | 1889年4月1日 | 2000年5月8日 | 笛田 | ||
笛田四丁目 | 1889年4月1日 | 2000年5月8日 | 笛田 | ||
笛田五丁目 | 1889年4月1日 | 2000年5月8日 | 笛田 | ||
笛田六丁目 | 1889年4月1日 | 2000年5月8日 | 笛田 | ||
笛田 | 1889年4月1日 | 未実施 | 大字笛田は住居表示未実施 | ||
山崎 | やまさき | 1889年4月1日 | 未実施 |
鎌倉市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 鎌倉市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 鎌倉市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
鎌倉市(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
東京都特別区部への通勤率は23.5%・横浜市への通勤率は18.5%である(いずれも平成22年国勢調査)。
当地に常住する15歳以上就業者は72,820人。うち他市区町村で従業している者は44,730人と、全体の61.4%である。他市区町村への従業先1位は東京都特別区部の17,093人、2位は横浜市の13,459人、3位は藤沢市の4,418人、4位は川崎市の1,675人、5位は横須賀市の974人である(平成22年国勢調査による)。
鎌倉市内には多くの遺跡(埋蔵文化財包蔵地[7])があるが(※特に旧鎌倉中心部はほぼ全域が遺跡のエリアとなっている[8][9])、旧石器時代~縄文時代の遺跡(東正院遺跡・玉縄城遺跡・粟船山遺跡など)は、関谷や玉縄、大船など、主に旧鎌倉の外側にあたる市域北西部に分布している[10]。
弥生時代に入ると、台地以外でも、滑川沿いの沖積地(大倉幕府周辺遺跡群)や、由比ヶ浜沿岸の砂丘(由比ヶ浜南遺跡・長谷小路周辺遺跡など)で弥生時代集落が出現する[11][12][13]。
古墳時代中頃後半(5世紀末)には、この砂丘地帯に向原古墳群という古墳群が造られ、埴輪が出土している[14]。また古代豪族「鎌倉別(かまくらのわけ)」の本拠であったと考えられており、丘陵部に横穴墓群が多数形成された[15]。鎌倉市から隣の横浜市栄区あたりまで存在している横穴墓遺跡の中には、特徴的な形をした玄室を持つものがあり[16]、旧鎌倉郡に分布しているとして「鎌倉型横穴墓」(鍛冶ヶ谷式横穴墓)と呼ぶ事がある[17][18]。また、浦賀水道の海路を介して房総半島へ抜けるルートの古東海道が通っており、古代交通の要衝であった[19]。
奈良時代から平安時代前期には、鎌倉郡の郡衙が設置された。郡衙跡は御成小学校を中心とする今小路西遺跡で、コの字形に並ぶ大型掘立柱建物や、「天平5年(733年)」銘の木簡が出土している[20]。
平忠常の乱の際、平直方による鎮圧が失敗、実際に乱を征圧した源頼信の功により、その子源頼義の頃に畿内の河内国石川郡壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とした河内源氏の所領となる。頼義の子で河内源氏三代目棟梁の八幡太郎義家の4代後の源頼朝が鎌倉幕府を置いて武家政権を成立させ、鎌倉街道も整備される。幕府の要職に就いた有力御家人は鎌倉に居を構え、また海に面した特徴を生かした海上交易も隆盛し、鎌倉五山なども置かれ関東における文化的中心地となる。
なお、九条兼実の日記『玉葉』の寿永2年(1183年)の記事に「鎌倉城」という言葉があることから、赤星直忠の研究以来、中世当時の鎌倉は全域が城郭都市と見なされていたとする説がある[21]。ただしこの言葉の解釈をめぐっては、赤星により防御施設遺構の例として挙げられた「お猿畠の大切岸」などに代表される山上の切岸状人工地形が、建築土木材用の石切場(採石場)であることが発掘調査で判明したことや[22]、『玉葉』での「城」という言葉が、城郭というより源頼朝(源氏)の「本拠地」という意味合いで使われているとする齋藤慎一の指摘などがあり[23]、鎌倉=城郭都市と見なすかについては諸説がある[24][23]。
貞応3年6月28日(1224年7月16日)には北条泰時が執権に就き、連署や評定衆を置いて幕府の合議制を確立するとともに、政権を頼朝以来幕府が置かれた大倉幕府から宇都宮辻子沿いの宇都宮辻子幕府に移し、貞永元年(1232年)には御成敗式目を制定して幕府の体制を磐石なものとした(1236年(嘉禎2年)には、宇都宮辻子幕府から若宮大路幕府へ移転または改築)。
元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕に呼応した上野国(群馬県)の河内源氏義家流・新田義貞は、分倍河原などで鎌倉幕府を専横した桓武平氏流北条氏の兵を撃破し、鎌倉へ進撃して泰時以来の菩提寺である東勝寺で北条氏一族を滅亡させた(東勝寺合戦)。由比ヶ浜沿岸部の由比ヶ浜南遺跡や由比ガ浜中世集団墓地遺跡は、発掘調査により中世に集団墓地であったことが解っているが、1953年(昭和28年)の鈴木尚による調査では大量の刀創などのある人骨が出土している。
京都で後醍醐天皇の建武の新政が始まると義貞は召還され、京都の六波羅探題を滅亡させるなど討幕に功のあった一族の足利尊氏の弟である足利直義や一門の細川氏などが親王を奉じて下り、鎌倉将軍府が成立。北条氏一族の残党が中先代の乱を起こし鎌倉が陥落すると尊氏は討伐に向かい、そのまま新政から離反して鎌倉で恩賞の授与などを行うが、尊氏は追討に派遣された義貞らを撃破し、京での戦いに負け九州落ちした後に北朝を樹立して武家政権を設立し、鎌倉へは子の足利義詮を派遣する。足利家の内紛が観応の擾乱と呼ばれる内乱に発展すると義詮は京へ呼び戻され、代わりに尊氏の次子の足利基氏が鎌倉へ派遣されて鎌倉府を設置し、以後鎌倉公方として関東統治を行う。
室町時代には鎌倉公方は幕府と対立し、鎌倉公方を補佐する関東管領とも対立したことなどにより上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦などの騒乱が起こる。享徳4年(1455年)には享徳の乱で足利成氏が下総国古河へ移り古河公方を成立させたことにより鎌倉は衰退する。
戦国時代には小田原の北条早雲が鎌倉地域に進出して、玉縄城を築いて東相模地域を支配する軍事拠点とした。北条氏綱の治世時代に安房の里見氏との合戦で焼失した鶴岡八幡宮を再建。上杉謙信・武田信玄・里見氏らにより度々侵攻を受けたが、そのたびに撃退している。北条氏滅亡後は徳川家康の支配下に入った。
近世には江戸が東国の中心となり、江戸時代には寺社の復興が始まる。江戸の庶民によって、大山の阿夫利神社、江の島の江島神社などへの参拝を目的とした講が結成されるようになると、代参者の立ち寄り先として観光ルートに含まれるようになった。
1889年(明治22年)に東京と軍港のある横須賀を結ぶ目的で横須賀線が開通したが、その経由地となったことによって、観光地としての性格が急激に濃くなっていった。また、東京から至近の別荘地として、皇族・華族や政財界の有力者などの一部が別荘を構えるようになり、これらを相手とした観光産業が発展していった。なお、この横須賀線建設工事のため段葛は寸断された。
明治中期に観光地化される少し前の1883年(明治16年)に「衛生(えいせい)」という言葉を日本で初めて医学に使用した長与専斎が、神奈川県の鎌倉の地域の海を地形的な特徴から「海水浴場として最適」と紹介した。当時は海水浴が医療効果を持つと信じられていたため、長与の紹介も行楽的な観点からではなく医療的な観点によるものであった。今日では海水浴と医療効果との因果関係は科学的根拠に欠けるとされるが、由比ヶ浜、材木座海岸といった海水浴場は行楽客を対象に賑わい、湘南の一部として一般に認識されている。
昭和に入ると、久米正雄など、作家や文人の一部が鎌倉へ移り住むようになり「鎌倉文士」という言葉が生みだされた。1936年(昭和11年)、松竹が撮影所を蒲田から大船に移し大船撮影所が開設されるようになると、映画関係者で鎌倉に移り住む者が増えていった。 1928年(昭和3年)の鎌倉山の分譲を嚆矢に、1930年(昭和5年)の横須賀線列車の電車化以降、戦前・戦後を通じて大規模な住宅開発が行われるようになり、東京近郊のベッドタウンとしての性格が強くなっていった。とりわけ、高度経済成長期の大規模開発の波は「昭和の鎌倉攻め」とも形容される。この時期に起こった鶴岡八幡宮裏の「御谷」開発中止を求める、作家大佛次郎を中心とした市民運動は、古都保存法制定の契機となり、異論はあるが日本におけるナショナル・トラスト運動の嚆矢ともいわれている。
首長の代数(歴代)の数え方は何種類もあるが、本節では (a)(b) を添える形で書き分けながら解説する。表示欄では「代(a)」「代(b)」という名で2種類を記載した。「代(a)」は、就任のあるたびにカウントする方式に基づく代数であり、「代(b)」は、同一人物による連続就任をカウントしない方式に基づく代数である。鎌倉市は「代(a)」の方式を採っているが(他の例:八王子市歴代市長、弘前市歴代市長、浜松市歴代市長)、「代(b)」の方式を採る自治体も多く(例:京都市歴代市長、大垣市歴代市長)、(a) と (b) の違いを認識しないまま単純に比較すると誤解が生まれる。なお、返り咲きがあろうとも同一人物を1カウントとする方式もあるが、鎌倉市にこれを当てはめると磯部が2回就任しているため、(b) の代数から 1 が引かれる。
代(a) | 代(b) | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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1940年(昭和15年)4月9日 | 1940年(昭和15年)11月16日 | 1939年(昭和14年)11月3日、鎌倉市が発足。市長が選出されて就任するまでの間は、市長職務代行者が置かれるが、旧合併特例法に基づく特例事項で都道府県知事等もしくは施行前の首長がこれを務める。鎌倉市の係る資料は確認できないが、おそらく旧鎌倉町長・清川來吉が務めた。その後、清川が選出され、初代市長に就任した。 | |||
1940年(昭和15年)12月24日 | 1944年(昭和19年)12月23日 | 1期目4年を満了。 | |||
1944年(昭和19年)12月24日 | 1945年(昭和20年)12月10日 | 2期目の1周年を目前に体調を崩して辞任か。辞任のおよそ1か月後に死亡している。 | |||
1946年(昭和21年)1月25日 | 1947年(昭和22年)3月25日 | 無所属。1期4年を満了せず。 | |||
1947年(昭和22年)4月5日 | 1951年(昭和26年)4月4日 | 無所属。1期分4年を満了。 | |||
1951年(昭和26年)4月24日 | 1955年(昭和30年)4月23日 | 無所属。1期4年を満了。 | |||
1955年(昭和30年)5月1日 | 1958年(昭和33年)7月17日 | 無所属。在任中に死亡[52]。 | |||
1958年(昭和33年)9月3日 | 1962年(昭和37年)9月2日 | 自由民主党。1期目4年を満了。 | |||
1962年(昭和37年)9月3日 | 1966年(昭和41年)9月2日 | 自由民主党。2期目4年を満了。 | |||
1966年(昭和41年)9月3日 | 1970年(昭和45年)9月2日 | 自由民主党。3期目4年を満了。 | |||
1970年(昭和45年)9月3日 | 1974年(昭和49年)9月2日 | 鎌倉市民連合。1期目4年を満了。 | |||
1974年(昭和49年)9月3日 | 1978年(昭和53年)9月2日 | 鎌倉市民連合。2期目4年を満了。3選を目指すも落選。 | |||
1978年(昭和53年)9月3日 | 1981年(昭和56年)9月10日 | 無所属。在任中に病死[52]。 | |||
1981年(昭和56年)11月1日 | 1985年(昭和60年)10月31日 | 無所属。1期4年を満了。 | |||
1985年(昭和60年)11月1日 | 1989年(平成元年)10月31日 | 無所属。1期目4年を満了。 | |||
1989年(平成元年)11月1日 | 1993年(平成5年)10月31日 | 無所属。2期目4年を満了。3選を目指すも落選。 | |||
1993年(平成5年)11月1日 | 1997年(平成9年)10月31日 | 鎌倉を愛する市民の会。1期目4年を満了。 | |||
1997年(平成9年)11月1日 | 2001年(平成13年)10月31日 | 無所属。2期目4年を満了。3選は目指さず。 | |||
2001年(平成13年)11月1日 | 2005年(平成17年)10月31日 | 2001年(平成13年)10月21日、48歳で初当選[47]。無所属。1期目4年を満了。 | |||
2005年(平成17年)11月1日 | 2009年(平成21年)10月31日 | 無所属。2期目4年を満了。3選は目指さず。 | |||
2009年(平成21年)11月1日 | 2013年(平成25年)10月31日 | 2009年(平成21年)10月25日、36歳で初当選[47]。無所属。1期目4年を満了。 | |||
2013年(平成25年)11月1日 | 2017年(平成29年)10月31日 | 無所属。2期目4年を満了。 | |||
2017年(平成29年)11月1日 | 2021年(令和3年)10月31日 | 無所属。3期目4年を満了。 | |||
2021年(令和3年)11月1日 | 無所属。現在は4期目で、任期満了日は2025年(令和7年)10月31日。 | ||||
医療提供施設は特筆性の高いもののみを記載する。急患診療所以外の医療提供施設の記載順は「#町名」節の記載順を基準としている。
鎌倉市が属する広域医療圏は、二次医療圏(二次保健医療圏)としては「横須賀・三浦医療圏(横須賀・三浦保健医療圏)」(管轄区域:横須賀市、鎌倉市、逗子市、三浦市、葉山町)[58][59][60]である。三次医療圏は「神奈川県医療圏」(管轄区域:神奈川県全域)。
鎌倉市は三方を山に囲まれているため市外からの電波が入りにくく、古都保存法によって新たな中継局設置も困難なことから、地上デジタル放送の難視聴世帯が多く発生すると見られている。これに対し、市ではケーブルテレビによる解決を図っている[61]。
名越クリーンセンターと今泉クリーンセンターから発生する焼却残渣は、2000年(平成12年)4月以降は全量を溶融固化処理を行っており、最終処分場での埋め立ては行われなくなった[43]。
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鎌倉市の交通については、鉄道は市の規模に対して充実している反面、道路については地形の特性上行き止まりが多く、交通は限られた路線に集中する上、幅員も狭く歩行者・自動車の分離も不十分でかつ計画道路整備率が県内平均に劣っていることなど、交通安全上・渋滞面で課題を抱えており、特に休日や海水浴シーズンには市内各所で激しく渋滞する。バス路線は地域内を網羅しサービス水準は高いものの、前述の道路面の課題に影響され定時性の確保が課題となっている[64]。
この道路渋滞を少しでも緩和するため駐車上の整備とともにパークアンドライドが2001年度から本格実施されている。また、参拝客が集中する年末年始にかけては市内中心部(いわゆる鎌倉)を中心に大規模な交通規制が実施される。
オムニバスタウン政策をとっていることもあり、コミュニティバスの普及も見られる。
明治・大正期に隆盛を極めたが、自動車の普及で衰退して一時途絶したものの、人力車は市内観光用として昭和末期に復活した[65]。現代では個人営業以外に人力車を運用する企業も市内に存在する。
同様に観光馬車も復活しているが、複数の車が営業を行っている人力車に比べるとマイナー存在である。
鎌倉市は、横浜ナンバー(神奈川運輸支局)を割り当てられている。
バイクの場合は、江ノ電が描かれたご当地ナンバープレートが存在する。
年間延べ観光客数は約1,902万人。以下に主要な名所などを掲げる。なお、国宝・国指定文化財は216件であり、鎌倉の歴史的建造物群には「武家の古都・鎌倉」として、日本の世界遺産暫定リストに登録されているものがある。
「#鎌倉文士」も参照。
国木田独歩は1902年(明治35年)に鎌倉を訪れ、最初は御霊神社内の貸家に居を構えたが友人の押川春浪が紹介した貸別荘が気に入って賃貸することにし、後に代表作の一つとなる『運命論者』をここで執筆した。間もなく、妻子を呼び寄せ、「鎌倉ほど住みやすい所はない」「風光明媚なる為、どうしても(鎌倉を)離れられない」と述べたが、数ヶ月後に就職口が見付かって帰京することになる[67]。
その後、『鎌倉夫人』や『空知川の岸辺』、『非凡の凡人』などの諸作品を執筆するが、1908年(明治41年)に、結核によってこの世を去った。享年38歳。
芥川龍之介は、1916年(大正5年)7月に東京帝国大学(現・東京大学)英吉利文学科を卒業した後、恩師の紹介で横須賀にある海軍機関学校英語教授嘱託として12月付けで赴任することになり、東京から鎌倉町和田塚(現・由比ガ浜4-8付近)へ転居して、江之島電気鉄道(現・江ノ島電鉄)沿線で下宿生活を始める。
その後1917年(大正8年)9月にいったん横須賀市汐入町へ転居したが、1918年(大正7年)3月になって大町字辻の小山別邸内に借家として新居を構え、1919年(大正8年)3月末に海軍機関学校を退職し、田端の自宅(東京府北豊島郡滝野川町田端、現在の東京都北区田端1-19-18。田端文士村も参照)に戻るまで暮らした。
おおよそ1917年から1919年までの間、芥川が生活と文筆活動の本拠を鎌倉に置いたことは、1923年(大正12年)の関東大震災発生以降に文化人が鎌倉へ移住し「鎌倉文士」と呼ばれた時代の先駆けとされる。
大佛次郎は、1921年(大正10年)2月に妻となる女優の吾妻光(本名・原田酉子)と学生結婚するのを機に鎌倉へ移住し、鎌倉女学校(現・鎌倉女学院)で教鞭を執った。大佛と言えば『鞍馬天狗』をはじめとする娯楽小説の大家として有名であるが、これは関東大震災の影響で文芸界が劇作家をやれる状況でなくなり、困窮した大佛が時代劇娯楽小説、通称「マゲもの」に手を出さざる得なかったためだが、これが当たって以後、次々に作品が生まれ出ることとなる。大佛次郎のペンネームも鎌倉の大仏にちなむもの、当時は長谷大仏の裏に住んでいたところから、「マゲもの」掲載時にペンネームを求められた際にあわてて名付けたとされる[68]。
流行作家となった大佛は、鎌倉でたびたび転居し住まいを変えているが、これは生来の猫好きが原因だったようで、ひととき住んでいた材木座の借家は退去する際、畳を変えた上に襖や障子も新調し「小説家というのは感心な者だ」と家主に褒められたが、実際には十数匹の飼い猫が残した惨状を回復するためそうせざる得なかったという[69]。この家を退去後、1928年(昭和4年)に雪ノ下(神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目11-22)に新居を構えたが、これが大佛の終の住まいとなった。1945年(昭和20年)に鎌倉文庫設立の参加や、研究社の『学生』の主筆となり、1949年(昭和24年)まで「鎌倉通信」を連載し、財団法人鎌倉風致保存会の設立発起人及び初代理事を務めた際にもここを住まいとしていた。この鎌倉の邸宅は大佛の没後、「大佛茶廊」として2019年8月まで週末のみ一般公開されていた[70]。
1973年(昭和48年)に病没。死後は鎌倉扇ヶ谷の寿福寺に葬られた。
鎌倉文士も参照。
基本的に五十音順で表記。
注記のないものは連載終了した作品
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