邑井貞吉
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邑井 貞吉(むらい ていきち)は、講釈師の名跡。
本名は村井一太郎、後に為久四一[1]。1862年(文久2年)10月 - 1902年(明治35年)11月7日没。
江戸牛込の生まれ。2代目の子で、幼いころから吉雄の名で高座に出る[2]。幼い頃から文学に親しみ、父邑井一も医者にするつもりであったが、邑井吉瓶の厳しい指導によって、3代目貞吉を継ぐに至った[2]。
新作講談を得意とし、「石川五右衛門」も得意だった[1]。
4代目邑井 貞吉(1879年(明治12年)10月28日 - 1965年(昭和40年)2月11日)本名、相川喜太郎(あいかわ きたろう)[3]。山梨県甲府市生まれ[3]。講談組合頭取を長らく続け、周囲から「貞吉頭取」と呼ばれていた。
1879年10月、甲府に生まれ、5歳で東京神田に移る[3]。神田千桜小学校を卒業、6代目一龍斎貞山(当時は貞丈)の講談を聞いて講談師を志す[3]。商工中学へ1年通学するが、1895年、3代目邑井貞吉に入門する[3]。入門後、1年程度で吉弥と名乗る[3]。1905年10月、4代目邑井貞吉を襲名[3]。
当時の小説『当世五人男』『新比翼塚』や『漢楚軍談』『三国志』といった古典を講談に仕立てた[3]。2度渡米し、新聞雑誌をよく読み、世界情勢を講談に取り入れたりした[3]。弟子に邑井操がいる。
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