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近藤 唯之(こんどう ただゆき、1930年5月10日 - )は、日本のスポーツライター、コラムニスト、ノンフィクション作家、野球評論家。
左官職人の長男として東京都の本郷に出生、6歳から野球を始めた。旧制明治中学校では硬式野球部に所属し島岡吉郎監督の指導を受けるも、右肺の弱さから試合出場経験はなし。その後、明治大学法学部へ進学。島岡の薦めにより野球のプレーは諦め、書く方にまわろうとグラウンドに顔を出して野球観戦をした。卒業後の1953年4月に報知新聞社に入社し、同新聞(現:スポーツ報知)のスポーツ記者となる。1956年に朝刊の発行を始めた東京新聞にスカウトされて移籍[1]。毎日の戦評と野球コラム「金曜放談」を署名入りで執筆。
東京新聞時代は同紙のエース記者として活躍すると同時に、アルバイトで無署名記事を多いときには週刊誌など26誌で執筆した。1963年に初単行本『プロ野球を科学する』を出版。東京新聞社在籍中よりアルバイトで他誌の『週刊サンケイ』などに藤沢剛のペンネームで執筆。1969年に創刊された夕刊フジには無署名で「ボールの内幕」を連載し、これが好評だったことから正式に記者として移籍したいと打診され、入社後は編集局長待遇・野球評論家に就任。後に同紙評論家を務めた。アルバイトを黙認する自由な気風だった夕刊フジ時代は年に2冊から5冊のペースで著書を出版し、いずれも好セールスを記録して、2008年までに計62冊を出した[1]。1970年代後半から、FNNニュースレポート6:00の2代目スポーツコーナー司会を、夕刊フジから出向する形で参加した。
2000年代に大病を患って取材が困難となり、晩年にはエピソードの使い回しが多くなり、売り上げも低迷した。2008年にPHP研究所から出た『プロ野球 運命の引き際』が最後の著書である。この本を出した後、近藤の著書を14冊出版したPHP研究所との連絡は途絶え、多くの仲間とは音信不通となって執筆活動から退いた。引退後はプロ野球と大相撲のテレビ中継を見る生活だという[1]。
近藤のその文章には「うなる思いである」「男の人生なんて3日先がわからない」「〜をしたのは、プロ野球史上○○ただ一人である」というような一定の表現が頻出するという特徴があり、「近藤節」と呼ばれ人気を博す。
一方で近藤は現場取材をせず、「美談は創作したって構わない」というスタンスから記者仲間からの評判は悪く、引き抜きに動いた『朝日新聞』の記者が驚いたほどだった。事実誤認があるとか妄想だとの非難にも晒された[1]。
アスリートたちの生き方にサラリーマンの姿を重ね合わせる視点がユニークで根強い人気がある[1]。好きな球団は広島東洋カープで、毎年の順位予想では必ず優勝予想をカープとしていた。駆け出し記者時代にカープの選手たちに世話になったからだという。
東京新聞社が中日新聞社傘下になった後の労働争議の経験から、近藤は中日やその子会社である中日ドラゴンズには好感を持っていない。また、移籍を繰り返した経験から選手のトレードを積極的に評価し、トレードを嫌がる選手を批判する傾向にある。
期間 | 番組名 | 役職 | 担当日 | |
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1979年10月1日 | 1980年5月9日 | FNNニュースレポート6:00(フジテレビ) | スポーツキャスター | 平日 |
1980年4月6日 | 1982年10月31日 | FNNニュースレポート5:30(フジテレビ) | 日曜日 | |
1980年5月13日 | 1980年7月4日 | FNNニュースレポート6:00(フジテレビ) | 火・木・金曜日 | |
1980年7月9日 | 1982年3月12日 | 水~金曜日 | ||
1982年3月17日 | 1982年3月25日 | 水・木曜日 | ||
1982年3月29日 | 1982年10月27日 | 月~水曜日 |
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