斉明天皇陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県高市郡高取町大字車木にある越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「車木ケンノウ古墳」で、直径約45メートルの円墳である。 ただし、研究者の間では明日香村の牽牛子塚古墳が陵墓として有力視されており、そのほか同村の岩屋山古墳、橿原市の小谷古墳も候補としてあげられている。
建皇子7679167 (建王墓(越智崗上陵)))に治定されている。斉明天皇・間人皇女の越智崗上陵との合葬陵墓で、宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「車木ケンノウ古墳」。 ただし、文献上では建皇子の墓の所在は必ずしも明らかでない。前述のように『日本書紀』によれば斉明天皇は建皇子を自身の陵に合葬するよう命じて
牽牛子塚古墳5キロメートル離れた、奈良県高市郡高取町大字車木に所在する車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵として治定してきたため、おおかたの研究者との見解とのあいだに齟齬が生じている。そのため、真の継体天皇陵として有力視される今城塚古墳(大阪府高槻市)や真の文武天皇陵として有力視される八角墳中尾山古墳
越塚御門古墳2010年10月中旬、牽牛子塚古墳周辺の発掘現場を埋め戻す最中、明日香村教育委員会の技師である西光慎治は、古墳の南東約20メートルに埋まっていた1メートルほどの石に人為的に割れた痕跡があったため、気になってその周辺を発掘したことが発見に繋がった。 宮内庁は越塚御門古墳の発見後も、車木ケンノウ古墳
天皇陵墳へと変化し、さらに7世紀中頃から8世紀初頭まで、大王陵には八角墳が採用されるようになる(舒明天皇陵の段ノ塚古墳、天智天皇陵の御廟野古墳、天武・持統合葬陵の野口王墓古墳、文武天皇陵の中尾山古墳)。このような特別な八角墳が大王にのみ採用されたのは、畿内を中心とした首長連合の盟主であった大王の地位を、一