赤松義村
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赤松 義村(あかまつ よしむら)は、戦国時代前期(室町時代後期)の播磨の守護大名・戦国大名。赤松家の第10代当主(当主在職:明応4年(1496年)4月 - 永正17年(1520年)11月)。
概要 凡例赤松 義村, 時代 ...
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 大永元年9月17日(1521年10月17日) |
改名 | 道祖松丸(幼名)→義村 |
別名 | 二郎または次郎(通称) |
戒名 | 祥光院殿了堂性因大居士 |
墓所 | 常光寺 |
官位 | 兵部少輔 |
幕府 | 室町幕府播磨・備前・美作守護 |
氏族 | 七条氏→赤松氏 |
父母 |
父:七条政資 養父:赤松政則、養母:洞松院(めし) |
妻 | 正室:小めし(赤松政則と洞松院の娘) |
子 | 晴政(政村・政祐)、政元、高島正澄、政道 |
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播磨・備前・美作の3国を支配した戦国大名で、赤松家中興の第9代当主・赤松政則の婿養子に当たる。義村の家系は第5代当主・範資から始まる七条家の家系で、義村は範資の6代孫に当たる。父は七条政資(まさすけ)で[1]、以後の赤松宗家は江戸時代直前に滅亡するまで義村の家系が家督を相続した。
義村は政則の代から行われていた赤松家の戦国大名化をさらに推し進めるべく大名権力の強化を図ったが、守護代の浦上村宗がそれに反発して対立。播磨など赤松領で内紛となる。義村は村宗に敗れ、家督を嫡子の才松丸(のちの晴政)に譲って隠居したが、復権を図って再度村宗と対立したため、村宗により暗殺されて赤松家は没落した。