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日本の作家 (1938-2023) ウィキペディアから
豊田 有恒(とよた ありつね、1938年5月25日 - 2023年11月28日[1])は、日本の作家。SF作家、推理作家、翻訳家、脚本家、評論家。島根県立大学総合政策学部名誉教授[2]。日本SF作家クラブ会員。本名の表記は同一だが、豊田の読みが「とよだ」と濁る[3](ただし、著者名に「とよだ」とルビがふられた著作もある[注釈 1])。
いわゆる日本のSF作家第一世代にあたる[4]。
群馬県前橋市の医家の生まれ。父親は京都帝国大学医学部出身であったが、在学中は短歌会で若山牧水と交際があり、卒業後は『創作』誌に小説を発表し、開業医になってからは自宅に高浜虚子を逗留させるなど、文学に理解のある人物だったという[5]。こうした家庭環境の中で、有恒も群馬大学教育学部附属小学校在学中から父の蔵書を読み耽り、俳句や講談や落語に熱中していた[6]。のちにSF作家仲間になる高斎正は小学校・中学校の同級生。
中学時代は『読売新聞』の作文コンテストで群馬県下2位に入賞[7]。中学卒業後に上京し、武蔵高等学校に進む。中学時代の同級生には高木仁三郎と堤富男がおり、仲が良かったという[8]。高校時代は同校の寮に住み、演劇部に関係していた。校内の札付きの不良生徒とばかり交際して問題も起こしていたが、優等生であるため免罪されたという[9]。高校2年のとき、医師だった兄が脊髄腫瘍でギプスベッドに入ったきりになった上、父の急死に遭い、家業を継ぐ必要に迫られて医学部進学を決める。
1957年、現役で東京大学理科二類(医学科進学課程を含む。当時、理科三類は存在しなかった)に合格したが、東大に悪印象を抱いたために慶應義塾大学医学部に進学する。しかし入学直後に兄が快復したため家業を継ぐ義務から解放され、高校時代の猛勉強の反動で麻雀やハワイアンバンド等に熱中して一度も進級できぬまま留年を繰り返し、放校処分を受けた[10]。
このころ、同郷同学の高齋正を通じて元々社のSFシリーズや『SFマガジン』創刊号に触れ、SFに熱中し始める。のち、武蔵大学経済学部に進学。在学中、1960年、『オール讀物』新人賞に『モンゴルの残光』を応募したが落選した。1961年、『時間砲』で第1回空想科学小説コンテスト(後のハヤカワ・SFコンテスト)の佳作に入賞。1962年、「火星で最後の……」(後に「絶滅者」と改題)で第2回ハヤカワ・SFコンテストの佳作に入賞し、これが『S-Fマガジン]』1963年4月号に掲載されてSF作家としてデビューする。
武蔵大学在学中から、SF仲間だった平井和正の依頼で平井原作のアニメ『エイトマン』で1963年末に脚本家デビューを果たす[11][12]。武蔵大学卒業後、商社、広告代理店、出版社や野田昌宏の紹介でフジテレビの入社試験を受けたが全て失敗[13][14]。大学在学中にSF同人誌『宇宙塵』の会合で会った手塚治虫に『エイトマン』での手腕を買われて[15]、1964年、嘱託社員として虫プロダクションに入り、『鉄腕アトム』を初めとしてアニメのシナリオを手がける。大卒初任給が2万円前後の時代に、虫プロでの豊田の初任給は6万4000円だったという[16]。
虫プロダクションでは続けて『ジャングル大帝』などの脚本を手がけたが、1965年に、いわゆる「W3事件」(ワンダースリー事件)で、『ナンバー7』のキャラクターの一つ「宇宙リス」と同種のキャラクターが、TBSの『宇宙少年ソラン』に登場したことから、手塚と虫プロ上層部からスパイの嫌疑を受け、虫プロを退職[17]。TBSの通称漫画ルームに移り、『スーパージェッター』『宇宙少年ソラン』のシナリオを書いた。その後、手塚の誤解は解け、手塚の晩年まで公私にわたって交流は続いた。なお、問題の『宇宙少年ソラン』には石原 弘一のペンネームを用いての参加となった[18]。作家として売れ始めたことから、1967年の『冒険ガボテン島』を最後にアニメの脚本からは手を引き、専業の作家として活動する[19]。
また1966年2月から筒井康隆、平井和正、伊藤典夫、大伴昌司と共同で[20]、SFプロ作家の評論を掲載する同人誌『SF新聞』を刊行したが、数号で休刊となった[21]。1966年には企画集団パロディギャングを広瀬正、水野良太郎、伊藤典夫らと結成するもまもなく脱退[22]。
SF作家生活の初期には、宇宙パトロール隊員タキイを主人公にした宇宙SFなど本格SFを手がけ[23]、『タイムパトロール』などの代表作があるポール・アンダースンに傾倒して、アンダースン作品を翻訳した他、自らオリジナルのタイムパトロールもの「ヴィンス・エベレット」シリーズを執筆[24][25]、後にヤマトタケルを主人公にした初の本格的和製ヒロイックファンタジーのヤマトタケルシリーズなど歴史的なものへと変貌して行った。中でも1972年発表の『倭王の末裔』はベストセラーになった[26][27]。他にジュブナイル作品や、世相を風刺したドタバタ系の短編小説といったジャンルで活躍した[28]。
その他の代表作に、モンゴル帝国が世界を支配したパラレル・ワールドを描いた『モンゴルの残光』、架空戦記の先駆作品といえる『タイムスリップ大戦争』『パラレルワールド大戦争』などがある。
1973年から1980年代にかけては虫プロ時代の同僚山本暎一からの依頼で数年ぶりのアニメの仕事となる「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」の原案、設定にも携わる[29]。『宇宙戦艦ヤマト』については『西遊記』に基づいて、企画書の元となる基本ストーリーを作った。裏番組の『猿の軍団』の原作者の一人となったこともあり、『ヤマト』ではSF設定を監修する立場に退いた[30][31]。なお、西崎、豊田、ささきいさおの3名は、武蔵高等学校の同窓であり、「宇宙戦艦ムサシ」にしておけばよかったのでは、とのジョークすら生まれたとのこと(年次は西崎、豊田、ささきの順)[32]。西崎義展と[33]松本零士の著作者人格権をめぐる争いでは、松本を支持し[34]、2000年には産経新聞のコラムで、『ヤマト』は多くの人の共同作業だが大半は松本に帰するのであり、西崎が著作権を主張するなら自分にも主張する権利があると述べた[35]。
1975年、角川春樹による古代船「野性号」での対馬海峡西水道の横断航海に同行[36]。
1982年頃から1991年にかけては、下北沢で創作集団パラレル・クリエーションを主宰し出渕裕、岬兄悟、星敬、米田裕らが在籍した[37][38][39][40]。1986年から1987年にかけて日本SF作家クラブの会長職[41]を務めた。
作家業の傍ら、2000年に島根県立大学総合政策学部教授に就任[2][42]。日本地域文化論などを教えたが2009年3月末に定年退職し[43]、名誉教授に就任する[2][44]。
2013年、他のベテラン作家とともに日本SF作家クラブの名誉会員となった[45]。
2023年11月28日、東京都の自宅で食道がんのため死去[1][46]。85歳没。訃報は同年12月5日に公表された[1][46][47]。
2024年、第44回日本SF大賞功績賞を受賞。
(前者はハヤカワ文庫版、後者はノン・ノベル版のシリーズタイトル)
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