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豆莫婁(呉音:づまくる、漢音:とうばくろう、拼音:Dòumòlóu)は、6世紀から8世紀にかけて中国東北部の嫩江流域に存在した民族。北夫余の末裔であるが、モンゴル系の言語を話す[1]。大莫盧[2]・達末婁[3]とも表記される。
北夫余が高句麗によって滅ぼされると、その生き残りは那河もしくは他漏河を渡ってそこに住み、豆莫婁となった。
『魏書』『北史』に「旧北扶余である」と記されているため、扶余諸語に思われるが[5]、『魏書』『北史』の失韋国の条に「語は庫莫奚・契丹・豆莫婁国と同じ」とあることから[6]、モンゴル系とも考えられる。いずれにしても、定説はなく、今後の研究を待たねばならない。
史書によると、勿吉国から北へ千里、洛陽から6千里の距離に在り、西には室韋がいて東は海(日本海)に行きつく、東西2千里の範囲に暮らしている。「東夷において最も平坦な地」とある。五穀を栽培するのに適しているが、五果(桃・李・杏・棗・栗)には適さないという。
豆莫婁の人々は背が高く、性格は強勇謹厚で略奪を行わない。君長は六畜(馬・牛・羊・犬・豕・鶏)の名をもって官名とし、邑落には豪帥がいる。飲食のときは勿吉とは違って[7]俎豆(そとう)[8]を用いる。麻布があり、衣製は高句麗の類で帽子が大きい。大人は金銀の装飾品を身につける。
刑法は夫余時代のままで、刑は厳しく、殺人者は死刑となり、その家人を奴婢とする。淫らで妬ましい者は殺してその屍を国の南山上に置いて腐らせる。遺族がこの遺体を取り返したかったら、牛馬と交換で遺体を取り戻すことができる。
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