謝瀹
南朝宋から斉にかけての官僚 ウィキペディアから
南朝宋から斉にかけての官僚 ウィキペディアから
謝荘の子として生まれた。車騎行参軍を初任とし、秘書郎・司徒祭酒・丹陽丞・撫軍功曹を歴任した。昇明3年(479年)、蕭賾が中軍大将軍となると、謝瀹は召し出されて記室となった。
斉が建てられると、謝瀹は太子中舎人に転じた。建元初年、桂陽王蕭鑠の王友となった。老齢の母を養うため、安成郡内史として出向した。建康に召還されて中書郎となった。王倹に召し出されて衛軍長史となり、礼遇を受けた。黄門郎に任じられ、吏部を兼掌した。ほどなく太子中庶子に転じた。
驍騎将軍を兼ね、長史兼侍中に転じたが、謝瀹は目まぐるしく官位が変わることを理由に、固辞して受けなかった。武帝(蕭賾)は早く任につくように命じ、別に朝廷の宿直を停止させた。司徒左長史に転じ、呉興郡太守として出向した。母が死去したため、官を去って喪に服した。喪が明けると、吏部尚書となった。
明帝のとき、右軍将軍の号を加えられた。侍中に転じ、太子中庶子・豫州中正を兼ねた。永泰元年(498年)、散騎常侍・太子詹事に転じた。その年のうちに死去した。享年は45。金紫光禄大夫の位を追贈された。諡は簡子といった。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.