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日本の公卿 ウィキペディアから
西園寺 公相(さいおんじ きんすけ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。太政大臣・西園寺実氏の二男。官位は従一位・太政大臣。冷泉相国と号す。西園寺家では初めて左大臣に任ぜられた。
元仁2年(1225年)、従五位下に叙爵。1232年-1233年に従四位上・左近衛中将。文暦2年(1235年)には播磨介と、国司も務める。
嘉禎2年(1236年)従三位。続けて仁治2年(1241年)に正二位に叙される。延応元年(1239年)従二位・権大納言に叙任され、建長5年(1253年)左近衛大将に任命される。建長6年12月(1255年)に右大臣、正嘉元年(1257年)[従一位、正嘉3年(1259年)に左大臣ついで弘長元年12月(1262年)に太政大臣となる。
実氏の長男は公基であり、当初は公基が嫡男として遇されていたようである。しかし本郷和人によれば、公基の生母が九条道家の側近の娘であり、九条家と幕府の間の軋轢を見た実氏が次子公相を家嫡に変更したために公基と公相の地位が逆転したのである[2]。ただし、公相の生母の出自はあまり高くはなかったようである。
『増鏡』の増補本系本文には公相にまつわる奇妙な話を見ることができる。「第八 山のもみぢ葉」中に「公相の述懐」と「公相の死」が描かれている。父実氏よりも早く死ぬだろうと本人が思っていたこと、公相が薨去した時に棺から首が盗み取られて外法に使われたこと、などである。また『徒然草』第114段には、随身が漏らした御者への悪口を聞き咎めて暴行を加えるという、公相の気性の激しい人となりが描かれている。
藤原実宗が藤原師長を琵琶の師として以来、西園寺家では代々琵琶の秘曲伝授に関わってきたが、公相も仁治元年(1240年)10月11日に藤原孝道から秘曲楊真操の伝授を受けた記録が残る[3]。また、『文机談』にも公相が琵琶秘曲伝授に関わっていたことを示す記事が見られる。 建長4年(1252年)4月には、後深草天皇が琵琶を始めた時の伝授者として関わったことが「冷泉相国記」[4]に記されている。
※以下、『公卿補任』の記載に従う。
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