薩長土肥
明治維新に貢献し、明治政府に人材を輩出した有力四藩 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
薩長土肥(さっちょうどひ)は、江戸時代末期(幕末)に雄藩と呼ばれ、明治維新を推進して明治政府の主要官職に人材を供給した薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩4藩の総称[1]。西海道と南海道の有力諸藩で「西南雄藩」。その主要人物たちは「元勲」「明治の元勲」「維新の元勲」と呼ばれた。
薩長土は、幕末期、志士たちの交流や薩長同盟・薩土同盟で連携関係を結んでおり、特に薩長は全国の他の諸藩よりも藩政改革が早く、不平等条約による開国という状況や幕末という時代変化にいち早く対応していたため、倒幕の立役者となる人材を多く輩出していた。また、戊辰戦争の頃から、倒幕運動には不熱心だったが藩政改革が進んでおり開明的だった「雄藩」の肥前を仲間とみなし、肥前藩にも明治政府に人材を供給させた。
このため、明治政府の上位官職を薩長土肥で一時期ほぼ独占する状態となり、藩閥政治と非難された。しかしながら、実際に薩長土肥により明治政府が運営されたのは、1871年(明治4年)から明治十四年の政変(1881年・明治14年)までで、明治十四年の政変以降は薩長出身者が政府・軍部の中核をほぼ独占し、土肥出身者の一部は政府に残りつつも大半は外野から薩長藩閥を攻撃するという展開となった。いずれにせよ、明治の国政は薩長土肥出身者の内部での権力闘争・路線闘争による政治であったと言える。
明治維新後の1871年(明治4年)に薩摩・長州・土佐から徴集され組織された天皇直属の御親兵が、後の帝国陸軍へとつながる。1872年(明治5年)2月の兵部省改組により陸軍省が正式に発足する。