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蔚山城の戦い(ウルサンソン[1]のたたかい、いさん[2]じょうのたたかい)は、1598年1月29日(慶長2年12月22日)から同年2月9日(慶長3年1月4日)に慶長の役で明・朝鮮連合軍と日本軍との間で行われた交戦(蔚山城の構造については蔚山倭城を参照)。当項の日付は和暦を用いるものとする。
第一次蔚山城の戦い | |
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戦争:慶長の役 | |
年月日:慶長2年12月22日から慶長3年1月4日(1598年1月29日から2月9日) | |
場所:朝鮮国慶尚道蔚山 | |
結果:日本軍の勝利[3] | |
交戦勢力 | |
明 朝鮮国 |
豊臣政権 |
指導者・指揮官 | |
明軍 楊鎬 麻貴 | 籠城 加藤清正 援軍 毛利秀元 長宗我部元親 |
戦力 | |
明軍40,000[4] 朝鮮軍10,000 合計50,000 |
籠城10,000[5] 援軍13,000+数量を知らない水軍[6] (諸説あり) |
損害 | |
明史 明軍戦死20,000[7] [8] |
朝鮮王朝実録 兵力不満3千 |
文禄の役後、日明の間で続けられた和平交渉は決裂し、再征が決定された。慶長2年(1597年)の任務として、全羅道・忠清道を成敗すること、これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中心として築城することが命じられていた[12]。
慶長の役が始まると釜山周辺に布陣していた日本の諸軍は、明・朝鮮軍を破って全羅道・忠清道に進撃し、この二道を成敗するという目標を達成する。そして次の任務である築城を開始するために朝鮮南岸域に帰還した。
釜山周辺には、既に文禄期から倭城群が築かれていたが、新たに築かれる城はその外縁部に位置し、東から、蔚山城、梁山城、昌原(馬山)城、唐島瀬戸口(見乃梁)城、固城城、泗川城、南海城、順天城の八城である。
これら倭城群の最東端にあたる蔚山の地(隣接拠点西生浦倭城の北約15km)には、加藤清正自らが縄張りを行い、慶長2年(1597年)11月中旬から、毛利秀元・浅野幸長・加藤清正の軍勢を中心として、久留の計をめざし本格的に蔚山倭城の築城を始める。
城地に選ばれた島山は蔚山湾の最奥で、南には太和江が流れている。現在は長年に亘る土砂の堆積と近年の埋め立てにより内陸化しているが、当時は海のすぐ近くに位置しており、城下には兵船を着岸させることができた。
築城を急ぐ日本軍に対し、このころ明・朝鮮では、加藤清正を日本軍中で最強の武将とみなし、蔚山を攻めて清正を捕らえたなら日本全軍の士気をくじくことができると考え、明将楊鎬・麻貴らに率いられた明軍および、都元帥権慄率いる朝鮮軍(権栗は楊鎬、麻貴の管轄を受ける)、合わせて約50,000の兵を建設中の蔚山倭城に差し向けた。
蔚山倭城では、約40日の突貫工事で完成が目前になると、築城が担当であった毛利秀元は兵糧・武具類を釜山に輸送し蔚山を退去して帰国の準備に取り掛かっていた。また加藤清正は西生浦に出張中で蔚山にはおらず、浅野幸長・太田一吉らが城外の仮営に駐屯していた。そこへ12月22日、明軍の先鋒李如梅指揮下の騎兵500に急襲され、毛利家家臣の冷泉元満・阿曽沼元秀・都野家頼が討ち死に、仮営は焼き払われた。当初、浅野幸長らは仮営からの銃声を白鳥狩をしていると思い込んでいたために救援に遅れることになる。敵の襲来の報が入り浅野幸長・太田一吉が反撃に移るが、李如梅が偽装退却で浅野勢をおびき寄せ、擺賽・楊登山の騎兵3,000らが三方から合撃したので浅野勢は苦戦に陥った。明軍は500人以上の日本軍の首級を斬首し、首級のほか、明軍は日本軍を追撃して大量の日本軍を東川江で溺死させた。敗戦した日本軍は南に撤退して島山まで守り抜いた。
蔚山城が襲撃を受けたとの報を西生浦で聞いた加藤清正は即座に兵船に座乗して蔚山に帰還、城内に入った。これより籠城する日本軍は加藤清正の指揮下に入った。23日、未完成であった城の惣構を明・朝鮮軍が突破し(朝鮮人、明朝人の記述では、蔚山地域には4つの砦がある。明軍はその中の3つを攻め落とし、それぞれ伴鴎亭、城隍堂、太和江寨であり、その中の城隍堂は標準的な日本式砦であり、とっくに修築されている。)、日本軍は島山城に撤退し、明軍の攻撃に抵抗した。
朝鮮王朝実録での楊鎬の説明によれば、明軍はこの日までの攻撃で日本軍1300人を斬首し、焼死溺死したものは数えきれない(数千人)としている。 [13] [14](楊鎬のこの奏表は2日間の戦いを指しているが、多くの日本人は彼を1日と理解している)
12月24日早朝、明・朝鮮軍は四面から蔚山内城を攻撃したが、城を守る日本軍から無数の銃弾を浴び、多数の死傷者を出して退却した。陳寅さんは怪我をして、朝鮮王京に運ばれて休養した。25日、楊元は朝鮮軍の都元帥権慄を呼び「今日、明軍は休息するが、朝鮮軍は城を攻めよ」と命令する。権慄はこれに従い朝鮮軍単独による城攻めを行ったが、銃撃で多数の死傷者を出し退却した。26日は終日風雨だったが雨を冒して進攻、27日もまた軍を進めたが同様に死傷者を出した。28日には柴草を集め、城を火攻めにしようとしたが、明軍・朝鮮軍ともに多数の死傷者を出し、城の下に達することも出来ずに退却した[15]。
このように、連日攻城戦を展開する明・朝鮮連合軍に日本軍は大きな損害を与え続け[16]攻撃を頓挫させた。しかし、城の完成直後で兵糧の備蓄も充分でなく、日本軍側は厳しい籠城戦を強いられることになった。冬の寒さと飢えとにより倒れる者が続出し、落城は時間の問題となる。29日には、城を明け渡せば和睦するとの使者が明・朝鮮連合軍の陣営から派遣された。その2名の使者は、降倭将の岡本越後守と田原七左衛門であった。清正は開城には応じる気はなかったが、捕虜交換の交渉には前向きで、城外で明将との会見に臨もうとして浅野幸長に諫止された。結果的に、この一連の交渉が援軍到着までの時間稼ぎになった。蔚山城包囲戦の最中、明・朝鮮軍は日本の援軍が大挙して到来することを恐れていた[17]が、この恐れは現実のものとなる。
一番隊 計4,550 |
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1,600(鍋島直茂、勝茂) |
150(毛利吉成、毛利勝永、秋月種長、高橋元種、伊東祐兵、相良頼房) |
2,200(蜂須賀家政) |
600(黒田長政) |
軍監(早川長政、垣見一直、熊谷直盛、竹中重利)各々小部隊を率いて之に続く |
二番隊 計3,770 |
70(加藤嘉明) |
50(中川秀成) |
500(生駒一正) |
150(脇坂安治) |
3,000(山口宗永) |
未詳(池田秀雄) |
三番隊 計3,900 |
3,900(毛利秀元) |
水軍 兵数未詳 |
長宗我部元親、池田秀氏、加藤清正の兵 |
一方、12月26日には毛利秀元と小早川秀秋に代わって小早川勢の指揮を執る山口宗永[18]が、27日には黒田長政・安国寺恵瓊、28日には毛利秀元、29日には蜂須賀家政・鍋島直茂勝茂父子・加藤嘉明ら日本側の援軍が西生浦に続々と到着する。[19]また海上には長宗我部元親らの水軍が到来した。このため明・朝鮮軍は早急に蔚山城を陥落させる必要に迫られた。その夜、楊鎬・麻貴は全軍を自ら督戦して最後の攻城戦を開始するが、敵前退却する士率を斬り捨て、さらに戦意不足の李化龍を捕縛し軍中の見せしめにしなければならない状況であった。来援を知った蔚山城兵は生気を取り戻して迎撃し、攻めかかる敵兵に銃弾を浴びせかけた。明・朝鮮軍は誰一人として抵抗する者がいなくなるほどの損害を被り[20]、最後の攻城戦は失敗した。
1月4日、楊鎬・麻貴は城攻めの失敗と援軍の到来により退路を失うと判断し、李如梅・擺寨・楊登山の3隊を後衛として逐次慶州へ撤退を開始する。
日本の赴援軍では毛利秀元の陣所より、吉川広家が先陣として明軍に向かって突撃し、続いて立花宗茂[21]は吉川隊と連携しつつ側面から追撃、黒田長政・蜂須賀家政ら日本軍諸部隊も一度に突撃した。これを受けた明軍は敗走を開始した[22][23]。朝鮮人の記述では、明軍は崩壊せず、擺賽、楊登山は日本軍を撃退した。明軍は持って行けない食糧や物資を燃やし、大部隊を先に撤退させた。
吉川広家は明軍の一隊の退路を寸断すると、その退路を失った明兵は池のある方向へ逃亡した。[22]。
日本軍は殿後の明軍の追撃を試みる。しかし日本軍は李如梅に撃退された。
明軍の内、箭灘を守っていた浙江の吴惟忠歩兵及祖承训騎兵には、楊鎬・麻貴の撤退が伝わっておらず、慌てて転倒しながら逃走をはじめた。蔚山城の日本兵は山を駆け下り、一気に敵兵を討ち殺した。明軍で歩兵の生還者は多くなく(一説には戦死200人)、騎兵も多数の戦死者を出し、甲冑を投棄し身一つで逃走した。また朝鮮軍も多くの死傷者を出した。
明軍の戦死者は無数に及び 、追撃戦時における戦死者数は、軍中で隠蔽されているため正確には判らないが、或いは3,000とも、或いは4,000とも云われ、その中で参将盧継忠の一軍は後方にあったためほとんど壊滅した[9](盧継忠部明軍の実際の損失は約700人)。中国側の史料である明史によれば、この戦いで明軍は2万人が戦死する大損害を出し[24](明史は18世紀に編成され、内容の多くは荒唐無稽だった。古代朝鮮人の多くは楊鎬が誣告されたと考えており、蔚山の戦いで実際に千人以上が損失した。)、戦いは日本軍の勝利となった。城廻り敵死骸数の事『浅野家文書』二五五号によると、合戦後の日本側検証で各場所合計10,386人分の敵兵の遺棄死体を確認している[25](浅野家文書明軍には数十万人がいるが、それは偽造文書である)。
1月1日(朝鮮暦)までに、朝鮮軍は298人を戦死させ、876人を負傷させ、陣に臨んで4982人を逃走し、陣の前に3813人を残した。後続は不明。
明軍の指揮官クラスでは、遊撃楊万金戦死[26]、千総麻来戦死[27]、千総周道継戦死[28]、千総李洞賓戦死[29]、把総郭安民戦死[30]、千総王子和戦死[31]、哨総湯文瓚戦死[32]、千総銭応太戦死[33]、張応元戦死、陳観策戦死[34]、遊撃陳寅負傷[35]、遊撃陳愚沖負傷[36]という損害を出している。明将楊鎬は日本軍の追撃を恐れ、漢城まで撤退した[37]。(朝鮮人の記録によると、楊鎬、麻貴は日本軍を恐れずに正常に撤退し、兵力を再配置して各地に駐屯して日本軍に備える)
敗北した明軍では退却中に麻貴配下の韃靼兵が略奪を働くなど統制が乱れ、また朝鮮人が日本軍の味方をしたとの情報に接した明軍上層部が不審を抱くこととなった(楊鎬は庶民をいじめた兵士を処罰し、殺した。)明軍を統括する経略の邢玠は1598年2月に結果を戦勝として皇帝に奏上し、万暦帝はこれを「国威、大いに彰わす」と賞賛した。しかし、軍の内部から戦死者が1,621に及ぶとの報告があり。
邢玠の部下で賛画の丁応泰は、戦捷は虚報であり、経理楊鎬・提督麻貴・副総兵李如梅らは多数の兵と武器を喪失し、事実を隠蔽したことを6月に上奏した。他に遊撃陳寅・周陞からの讒言もあり、万暦帝は激怒して楊鎬を更迭し、天津巡撫万世徳に代えた[38][39]。(古代朝鮮人は楊鎬が濡れ衣を着せられたと一致した。古代朝鮮での楊鎬の名声は非常によい。丁応泰は古代朝鮮で奸臣の代名詞となった。)
大河内秀元の著書、朝鮮物語(大河内秀元陣中日記)による記述では、明軍の軍勢は80万騎だったとしている(古代日本の史料が明軍兵力に触れた時、基本的にはそうだった)。日本側の兵数は23000、日本軍は初日の攻撃だけで18360人が戦死したと記述している。籠城による餓死凍死は896、援軍の戦死を2800と記している。明軍の討ち死にした死体は15754としている。
蔚山攻防戦の後、宇喜多秀家・毛利秀元・蜂須賀家政ら13将は蔚山・順天・梁山の三城放棄する戦線縮小案(1月26日付、連署注進状)を豊臣秀吉に上申しているが、3月には秀吉の不興を蒙り却下され、僅かに黒田長政の守城が梁山から亀浦に変更されるにとどまった。
この合戦について、軍目付の福原長堯・熊谷直盛・垣見一直は、蔚山救援軍の陣所に一部の明軍部隊が攻撃を仕掛けたとき、先鋒の蜂須賀家政・黒田長政が「合戦をしなかった」と豊臣秀吉に報告した(「合戦をしなかった」との報告は、蜂須賀家政・黒田長政が1月4日の追撃戦に参加しなかったという報告ではなく、1月3日の前哨戦の事である。「唐人河を越え、少々山に乗り揚げ候」とあるように [40]、少数の明軍部隊が太和江を越えて、高地上の日本の赴援軍に攻撃を仕掛けたときのことであり、追撃戦とは無関係であり、「追撃しなかった」などとは一切報告されていない。朝鮮王朝実録にも1月3日に日明両軍の間に小戦闘が起こったことが記されている。[41]。慶長三年正月二十五日付で秀吉は黒田長政に、蔚山城救援の功を賞する朱印状を送っており「追い討ちに数多討ち捨て候由」とあり、長政は追撃戦に参加して戦果を挙げたというのが、秀吉の認識であった。[42])。このため両者は秀吉の不興を蒙り、とくに蜂須賀家政は三城放棄案の件と併せて秀吉の逆鱗に触れ、領国への逼塞が命じられた。他に目付の早川長政・竹中隆重・毛利高政も秀吉の不興を蒙り領国への逼塞が命じられた。一方、福原長堯・熊谷直盛・垣見一直には報告の褒美として豊後国内に新地が与えられた。また秀吉は筑後国・筑前国を石田三成に与えようとした。これは三成が辞退したものの、筑後国・筑前国における蔵入地の代官に三成を任じ筑前国名島城を与えた[43]。
しかし、この蔚山城救援諸将に対する処分は後の慶長4年(1599年)に石田三成襲撃事件が発生して三成が失脚すると、発言力を高めた徳川家康は五大老会議を招集し、蔚山城救援諸将に「落ち度がなかったことは歴然としている」との裁定を下し、処分の撤回と名誉回復の処置がとられる。慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いが起こるが、このとき蜂須賀家政・黒田長政は東軍につくことになる。
また、この際に譴責を受けた諸将の中には加藤清正なども含まれていたが、彼らは秀吉への報告を行った福原長堯の縁戚である石田三成がこの処分に関わっていると見て反発を深め、後に所謂「七将」と呼ばれる反・石田三成勢力が結成されるきっかけになったとみられており、結果的には関ヶ原の戦いの一因になった事件であったと考えられている[44]。
前回の敗戦後、明軍では本国からの増援を得て兵力は約10万となり、慶長3年(1598年)8月、明・朝鮮連合軍は、東路軍、中路軍、西路軍、水軍、の4軍に分かれて南下を開始する。東路軍は蔚山を、中路軍は泗川を、西路軍と水軍は順天を同時に攻撃する戦略であった。この内麻貴総兵が指揮する東路軍29,500人(明軍24,000人、朝鮮軍5,514人[46]。は9月21日(以下和暦)に慶州を出発。22日に加藤清正が守備する蔚山倭城を攻撃したが今回は篭城準備がなされており、明軍が城を攻撃しても日本軍の反撃により明軍の被害が増えるばかりで攻略の目処は立たなかった。麻貴は挑発などを行い日本軍を誘きだそうとしたが、城中の清正は守りを固めて出て来ない(日本戦史朝鮮役 P397)。攻略の目処も立たず、さらに中路軍が泗川の戦いで大敗したとの報告も届いたため、10月6日には蔚山倭城より撤退し、慶州へ帰還した。
『明史』によると、日本軍は偽りの退却をして麻貴の明軍を誘引し、明軍が空塁に入った時、伏兵が起こり明軍は敗北した[47][48]。
しかし朝鮮史料『象村稿』には、日本軍は敵を誘引して明軍を待ち伏せ攻撃するのではなく、明軍が敵を誘引して待ち伏せ攻撃で日本軍を破ったと記されている。明軍は日本軍の首を1人斬り、明軍は日本軍を追撃し、一部の日本軍は川で溺死した。
また『乱中雑録』趙慶男によると、9月18日(日付は明暦)、麻貴が明軍を率いて慶州を出撃。朝鮮軍の金応瑞が別に東萊へ進撃してから進んで蔚山倭城を攻撃開始し、防柵などを焼いた。
清正は去年の攻撃を戦訓に防戦の準備を重ね、堅く守備を固めていたために明・朝鮮軍は攻めきれずに撤退した[49]。
10月12日、明・朝鮮軍は慶州に到着した。
同じく慶尚道左防禦使の権応銖が都元帥の権慄に送った報告によると「9月19日に麻貴は釜山の日本軍を牽制するために金応瑞が東萊の温井に赴く、翌20日から蔚山倭城を攻撃開始した。明軍は日本軍を再び出城させようとしたが、日本軍はどうしても出城しなかった。包囲を一旬(約10日間)続けたが攻略の目処が立たないために撤退した」と記述している。
第二次蔚山城の戦いでは加藤清正が守りに徹したため、泗川倭城攻撃し島津義弘の逆襲を受けて潰走した中路軍や、小西行長の順天倭城に水陸から総攻撃を実施した後、兵糧を投棄しながら退却した西路軍と水軍のような混乱を東路軍ではおこすことなく比較的整然と撤退した。
朝鮮王朝実録には、三路の戦い(第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い)において、明・朝鮮軍は全ての攻撃で敗退し、これにより、三路に分かれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたと記述されている[50]。
この戦いに先立つ8月18日、既に豊臣秀吉は死去しており、その死は秘匿されたまま10月15日に帰国命令が発せられ、加藤清正は11月18日に蔚山倭城より撤退を完了して帰国した。
慶州に撤退していた麻貴は日本軍の撤退後の蔚山倭城を接収し、これを自らの戦功として報告した。このため、明では陳璘・劉綎に続いて3番目に麻貴の功績が評価されている。
熊本市中央区には「蔚山町(うるさんまち)」という名の市電停留場およびバス停留所がある。加藤清正が陣取った蔚山、あるいはそこから連れてきた人々を住まわせたことにちなむとされる。電停名の韓国語表記では、「蔚山」の部分のみ外来語表記法に依らず朝鮮漢字音で読んだ「울산마치(Ulsanmachi)」が用いられている。
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