興雲院高畑源十郎(近江野洲郡北里村の土豪)の四女。織田信長の側室 / ウィキペディア フリーな encyclopedia 興雲院(きょううんいん、? - 慶長17年6月25日(1612年7月23日))は、織田信長の側室の一人。 総見院にある興雲院の墓 近江国野洲郡北里村の土豪・高畑源十郎の四女[1]。通称はお鍋の方(おなべのかた)。しかしながら、お鍋宛の書状の宛先は「小倉」「小椋」などとなっており、系譜類では「小倉三河守女」との記録も残り、当時の女性は実家の姓を名乗る事から、高畑氏であると言う説には疑問が残る。また、本能寺の変後、お鍋が実家の小倉氏の元に戻っていたとする文献もある。
興雲院(きょううんいん、? - 慶長17年6月25日(1612年7月23日))は、織田信長の側室の一人。 総見院にある興雲院の墓 近江国野洲郡北里村の土豪・高畑源十郎の四女[1]。通称はお鍋の方(おなべのかた)。しかしながら、お鍋宛の書状の宛先は「小倉」「小椋」などとなっており、系譜類では「小倉三河守女」との記録も残り、当時の女性は実家の姓を名乗る事から、高畑氏であると言う説には疑問が残る。また、本能寺の変後、お鍋が実家の小倉氏の元に戻っていたとする文献もある。