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自由フランス海軍(Les Forces Navales Françaises Libres,FNFL)は自由フランス軍のうち、海軍を担当する部門である。第二次世界大戦において、フランス対独休戦後の1940年6月28日にジブラルタルで設立されたものであり、連合国軍の一部として欧州戦線の各所に投入された。指揮官はエミール・ミュズリエ提督。
1940年6月の独仏休戦時、フランス海軍はほとんど損失を受けておらず、多くの艦船を保持したままだった。海外植民地や連合国側に脱出した艦艇もあったが、新たに成立したヴィシー政府に忠誠を誓い、イギリス軍に編入されることを望まないものもあった。このため、ドイツ軍による接収をおそれたイギリス海軍によるメルセルケビール海戦でのフランス艦隊への攻撃や、ポーツマス、プリマス、アレクサンドリアに脱出していた艦艇の接収をめぐる衝突も発生した。
結局、発足当初の自由フランス海軍は戦艦3隻、巡洋艦4隻、若干の駆逐艦と潜水艦を確保できただけで、戦力拡充のため、イギリスからハント級駆逐艦やフラワー級コルベットの貸与を受けた。全ての艦艇を一度に運用できるほどの人員がなく、小型艦での船団護衛や哨戒を主任務としていた。だが1940年9月以降、自由フランスが世界中のフランス海外植民地をヴィシー政府から奪う形で反攻作戦を始める(ダカール沖海戦)と、連合国軍侵攻艦隊の一翼も担った。
1942年11月のトーチ作戦の結果、アフリカのヴィシー政府側フランス軍は連合国軍と講和し、リシュリュー級戦艦以下のまとまった戦力が加わった。フランス本土のヴィシー政府側フランス軍が直後のアントン作戦で壊滅したため、1942年末以降、自由フランス海軍は「フランス海軍」とほぼ同義の存在となった。
1943年7月、自由フランス海軍は日本軍占領下のインドシナを除くすべてのフランス海外植民地を傘下に収めた。続いて10月にはコルシカ島を奪還。そして1944年6月にノルマンディー上陸作戦、9月にプロヴァンス上陸作戦にも参加して、その後は1945年5月まで、ドイツ軍が立て籠もるラ・ロシェル、ロリアン、サン・ナゼール、ダンケルク諸港の奪回作戦を支援した。
1944年4月以降、リシュリュー以下の小艦隊が東南アジア海域で活動。イギリス海軍と共にアンダマン・ニコバル諸島を攻略する予定だったが、その前に日本の降伏によって戦争が終わった。極東のフランス軍艦艇はその後インドシナの再占領に従事した。だが、そこでは新たな戦いが待っていた。
海人社の資料によれば、終戦時の勢力は戦艦3、空母1、重巡3、軽巡6、駆逐艦13、潜水艦19、小艦艇95隻。総計23万6千トン、人員4万であったという。
以下は、自由フランス海軍各艦の参加経緯と戦歴の一覧である。ただし資料の限界で、潜水艦以下の艦艇では全ての艦を挙げられていない。
・世界の艦船No.346『第2次大戦のフランス軍艦』 海人社、1985年
・M.J.ホイットレー(著)、岩重多四郎(訳)『第二次大戦駆逐艦総覧』 大日本絵画、2000年
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