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紀伊型戦艦(きいがたせんかん)は日本海軍が八八艦隊計画で計画した戦艦で、いわゆる超弩級戦艦である[注釈 1]。4隻の建造が計画され、1番艦「紀伊」は呉海軍工廠で、2番艦「尾張」は横須賀海軍工廠で建造予定であった[注釈 2]。残り2隻は艦名未定[注釈 3]。1922年(大正11年)2月締結のワシントン海軍軍縮条約に基づき、建造中止となった[注釈 4]。
紀伊型戦艦 | |
---|---|
基本情報 | |
種別 | 戦艦[1] |
命名基準 | 国名 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
計画数 | 4 |
建造数 | 0 |
前級 | 天城型巡洋戦艦 |
次級 | 十三号型巡洋戦艦 |
要目 (計画[2][3]) | |
常備排水量 | 約42,600英トン |
全長 | 828 ft 0 in (252.374 m) |
水線長 | 820 ft 6+15⁄16 in (250.112 m) |
垂線間長 | 770 ft 6+15⁄16 in (234.872 m) |
最大幅 |
水線上:約106 ft 7 in (32.487 m) 水線下:約102 ft 9 in (31.318 m) |
水線幅 | 101 ft 11+1⁄8 in (31.067 m) |
深さ | 59 ft 3 in (18.059 m) |
吃水 | 32 ft 0 in (9.754 m) |
ボイラー | 重油専焼:11基・混焼:8基 |
主機 | オール・ギヤード・タービン 4基 |
推進器 | 回転数:210rpm |
出力 | 131,200shp |
速力 | 29.75ノット |
航続距離 | 約8,000カイリ / 14ノット |
燃料 |
重油タンク:約3,900トン 石炭庫:約2,500トン |
搭載能力 |
41cm砲弾 1,100発 14cm砲弾 1,920発 12cm高角砲弾 800発 61cm魚雷 24本 艦載水雷艇用45cm魚雷 5本 |
乗員 | 約1,465名[4] |
兵装 |
45口径41cm連装砲 5基10門 50口径14cm砲 16門 45口径12cm高角砲 4門 61cm水上発射管 8門 110cm探照灯 10基 |
装甲 |
舷側水線主甲帯:292mmVC[要目注 1] 舷側水線後部甲帯:229mmVC 前部防御隔壁:267mmVC 後部防御隔壁:203-229mmVC バーベット:203-305mmVC 司令塔側部:229-356mmVC 同上部:177mmNVNC[要目注 2] 同床部:76mmNVNC 同交通筒:51-102NVNC 煙路・機械室通気口:177-216mmVC 上甲板中央部:95mmHT[要目注 3] 中甲板機関部:22-32mmHT 中甲板弾薬庫:48mmHT 中甲板中央傾斜部:70mmHT 中甲板後部:19-44mmHT 下甲板前部:51-117mmHT 水雷防御隔壁:73mmHT 水雷防御横隔壁:89mmHT |
搭載機 |
一人乗戦闘機 1機、予備1機分 観測気球 1機 滑走台(4番砲塔上) |
その他 |
650馬力水圧機 5基 300kWタービン発電機 3基 150kW内燃機関発電機 1基 30kW無線用発電機 2基 |
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八八艦隊計画の完成案である八八艦隊案の予算が1919年(大正8年)に提出、翌1920年(大正9年)に成立し、加賀型戦艦と天城型巡洋戦艦に続く第九号艦以降の戦艦・巡洋戦艦の計画が進められていた。当初は建造期間や予算の問題から加賀型や天城型の同型ないし一部改正型の追加建造を検討していたが、その途上で火力や防御力で加賀型を上回るサウスダコタ級戦艦の建造情報を入手したこともあって、用兵側からサウスダコタ級に対抗できる新型艦を要求する声が高まった。また同時期に平賀譲が4連装砲塔の採用を上申したこともあり、1920年(大正9年)春から次期戦艦に搭載する主砲口径や砲塔形式を検討する「主砲研究会」が軍令部参謀であった安保清種を長として開かれた。
主砲研究会では41センチ砲の50口径化による威力の向上や将来の46センチ砲採用、41センチ3連装砲塔を4基搭載する12門艦の早期建造を提言したものの、1921年(大正10年)度の起工を予定していた八八艦隊計画の第九号艦と第十号艦には新型主砲や砲塔の準備が間に合わないことから、天城型巡洋戦艦を基にして一部を改正した戦艦を建造することになった[9]。このため兵装や機関出力は天城型と同一で、船型もほとんど共通であるが、戦艦への改正により、天城型と比較すると舷側や甲板、主砲塔等の装甲を1インチから1インチ半増厚、煙路や通気口への防御甲板追加で加賀型戦艦を上回る防御に強化し排水量が約1400~1600トン増加することとなった。速力は天城型よりは低下するが、戦艦としては高速な29.75ノットとされた(ただし、これらは机上の計算値でしかなく、実際には重量増が1400トン程度では収まらず、速力はより低下していただろうという説もある)。
こうして八八艦隊計画の第九号艦と第十号艦を紀伊型として建造することは決定し、1921年(大正10年)10月に「紀伊」「尾張」の建造訓令が出された。一方で1922年(大正11年)度以降の建造が予定されていた第十一号艦と第十二号艦については紀伊型の船体を基本としつつ主砲研究会の提言通り新型の主砲や砲塔を搭載する案、船体規模を5万トン前後に大型化する案など[10]も検討されていた。
ワシントン会議の開催時点で、呉海軍工廠では巡洋戦艦「赤城」を、横須賀海軍工廠では巡洋戦艦「天城」を建造中で、2隻とも進水を終えていなかった[11]。「紀伊」(呉工廠)と「尾張」(横須賀工廠)は材料の準備が大部分終わったところであったという[11]。 ワシントン軍縮条約の締結により、加賀型戦艦は建造中止、「紀伊」と「尾張」は起工を待たず建造取りやめ[注釈 2][注釈 5]。第十一号艦と第十二号艦も詳細な設計には至らず中止された。
太平洋戦争の最中に刊行された『ジェーン海軍年鑑』では、日本海軍が5隻建造に着手している4万トン級新型戦艦(大和型戦艦)の艦名について「日進」「高松」「紀伊」「尾張」「土佐」と推定した[注釈 6]。
大和型戦艦の4番艦(111号艦)は、第二復員局が1951年(昭和26年)にまとめた資料によれば「紀伊」という艦名であった[注釈 7]。
後の「超大和型戦艦」(計画のみ)は紀伊と尾張の名を受け継ぐ予定であったとも言われる。
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