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築城海軍航空隊(ついきかいぐんこうくうたい)および1944年(昭和19年)2月20日に改称した第五五三海軍航空隊(だい553かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。戦闘機の搭乗員の教育を推進するため、生徒・学生・練習生への実機練習を推進した。築城空は二代あり、初代は北方戦線の哨戒任務を負う実用機部隊に変貌した。二代は中間練習部隊として編成され、実用機訓練の前段階を担った。また、1933年(昭和8年)より造成を開始した富高飛行場に分遣隊を設置し、並行して訓練を実施した。
ミッドウェー海戦の大敗によって不足した航空母艦飛行機隊の再編を期するため、1939年(昭和14年)より福岡県築城郡八津田村(現築上町)に建設を始めていた築城飛行場に着目し、航空隊を設置した。周防灘に面し、洋上爆撃・雷撃訓練が容易なうえに、呉鎮守府にもほど近く、航空母艦を招いての発着艦訓練をもくろんだ。
相次ぐ南方戦線への引き抜きのため、北方の航空隊は弱体化していたが、遂には五五三空自体も引き抜きの対象となったため、実施部隊に変貌してからの半年間、戦闘らしい戦闘を経験することなく、五五三空は解散した。解散後は主に硫黄島救援の各部隊の要員に転じた。
長らく戦闘機練習を実施していた大分海軍航空隊が解隊され、関東防衛機能を兼ねた筑波海軍航空隊に改編された。この際、筑波空を追い出された中間練習機隊が築城および富高に分散配備されることになり、二代築城空を編成したうえで旧筑波空の中間練習任務を継承することとなった。しかし、沖縄の地上戦を目前に控え、築城・富高には特攻の実施部隊が進出したため、中間練習の続行は困難となった。
築城空の基地である築城飛行場と富高飛行場は、戦後は正反対の結末を迎えた。
築城飛行場は、米軍の駐留を終えると航空自衛隊の臨時基地となり、1955年(昭和30年)1月より猛訓練を開始し、早くも同年5月にはジェット機パイロットの養成を達成した。1957年(昭和32年)10月には正式に築城基地を開き、教育飛行団として機能を始めた。現在でも冬にブルーインパルスの展示飛行が見られる人気スポットである。また、稲童1号掩体壕や米軍艦載機による銃撃痕が見られる戦争遺跡の宝庫でもある。
一方の富高飛行場は、大蔵省によって民間に解放され、富島中学校や日知屋小学校などの公共機関や民間の農地に変貌した。宮崎県内に多数開かれた飛行場は、民間空港となった海軍宮崎飛行場と自衛隊基地となった陸軍新田原飛行場がわずかに残された。さらに日向市の発展にともない、痕跡は薄れつつある。それでも、協和病院前にコンクリート滑走路の痕跡が残るなど、わずかに面影は残っている。
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