『第47回NHK紅白歌合戦』(だいよんじゅうななかいエヌエイチケイこうはくうたがっせん)は、1996年(平成8年)12月31日にNHKホールで行われた、通算47回目の『NHK紅白歌合戦』。
20時から21時25分および21時30分 - 23時45分にNHKで生放送された。
- 両組司会は松たか子・古舘伊知郎(3年連続)が担当。当時19歳の松は紅白司会者の最年少記録(未成年者が司会を務めるのは史上初)を打ち立てた。
- 総合司会については、2年連続で宮本隆治・草野満代が担当。後者について、史上初の女性アナウンサーの複数回司会担当となった。
- 当初番組側は3年連続での上沼恵美子・古舘の両組司会起用を構想[1]していたが、上沼が古舘との確執を理由に続投要請を拒否したことで[2]、この年の大河ドラマ『秀吉』に出演していた松が起用される運びとなった。
- 紅組司会については、上沼の辞退表明後、松嶋菜々子(この年上期の連続テレビ小説『ひまわり』のヒロイン)、沢口靖子(1985年上期の連続テレビ小説『澪つくし』のヒロイン出身かつ『秀吉』に出演)、森口博子(『ポップジャム』司会者)が各マスコミの予想として挙げられていた。しかし蓋を空けるとそれまで下馬評では一切名前が挙がらなかった松が選出された[3][4]。
- 一方で上沼は本紅白を台湾のホテルで視聴したことを明かした上で「古舘さんは3年連続。あの時めっちゃ腹立ったんです。あの人だけ3年だったでしょう。私は2年。2人でやってきて、1人古舘さんだけ残って3年目やらはった」「途中でシャワー浴びに行って泣きました、悔しくて」と思っていたと語っている[5]。
- オープニングでは、火花を散らした球体のセットが爆発して2つに割れると中から出場歌手が、割れた球体の中央部からは松・古舘が現れる演出で始まり、その後古舘は上沼の実名こそ出さなかったものの紅組司会が交代したことを強調する意味で、「あの大体紅白の司会と畳は新しい方が良いと言われてましてですね」「今もうかなりの割合の人が『あっ松さん、新鮮だ・可愛い・守ってあげたい』そういう気持ちになってますんでね」「昨年までは若干私の方が可哀相だというような意見があった」と話す場面があった[4]。
- 同じくオープニングにて、第40回(1989年)以来7年ぶりに「乾杯の歌」が使用された。
- 上沼・古舘の両組司会となった過去2年間は審査員紹介もこの両組司会コンビが行ったが、今回のこれは総合司会の宮本・草野が担当した(以後、第50回〈1999年〉まで再び審査員紹介は総合司会の担当となった)。
- ウルフルズは同ボーカルのトータス松本が演中に倒れて演奏がストップ。白組歌手からの「トータス!トータス!…」と呼びかける掛け声で立ち上りまた歌いだすという演出を行った。これは「ガッツだぜ!!」のミュージックビデオを踏襲したものである。
- 近藤真彦の演奏が始まる前に、まだCDデビュー前(翌1997年にCDデビュー)のKinKi Kidsが登場し「ミッドナイト・シャッフル」のサビ部分を歌った。また演奏にたのきんトリオの野村義男がギター奏者として参加した。
- 初登場の華原朋美の歌唱では、彼女の音楽プロデューサーで交際中であった小室哲哉がピアノ演奏で参加(小室はglobeとしても出場している)。小室のピアノソロで華原は歌唱した。
- この年森且行が脱退し、5人編成となったSMAPが今回初めて第2部で歌唱(以後、毎回第2部で登場)。第2部オープニングで松・古舘が揃って登場、古舘はSMAPを時代をねじ伏せた男達と紹介し、SMAPと共演経験のある松は「何も言うことはありません」と発言し、曲タイトル読み上げも2人で行われた。また、SMAPは鳥羽一郎の歌唱時にもバックダンサーとして登場した。
- 玉置浩二のバックバンドにはTOKIOが登場した。
- 米米CLUBは、「浪漫飛行」の終了直前に、ボーカルのカールスモーキー石井がMINAKOから押されてステージから客席に転落する演出を行った。
- 憲三郎&ジョージ山本は、北島三郎の「山本!行けや憲三郎!」の掛け声と共に登場。しかし憲三郎が北島に似せたメイク、そしてものまねで歌ったことで袖の司会者ゾーンで見ていた古舘・北島・五木ひろしも爆笑していた。この時の映像は、ユニットを生んだ日本テレビ系列『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』内でも放送された。
- 「ときめきをさがしに」(ドラマ新銀河『素敵に女ざかり』主題歌。島倉自身が作詞を手掛けた)を歌唱した島倉千代子は歌詞が書かれたカンペを左手に隠し持っていたが、それにも関わらず歌詞が飛んでしまい最後に小さく「ごめんなさい」と笑顔で呟いた。
- 今回の衣装対決は、美川憲一が推定2億円といわれるセットを使用。「光ファイバーさそり座」というテーマ通り、背後にせり上がった布地にさそり座をイメージした電飾が描かれる演出だった。一方の小林幸子は「雪女」をテーマに着物からドレスへの早変わりや雪の結晶、宇宙をイメージしたセットを展開してみせた。また、両者の間に挟まれた形で出場したシャ乱Qも、古舘が「低予算で5着分、小林幸子に対抗しております」と紹介するなど衣装対決に参戦しており、つんくがせりから飛び上がって登場し、たいせーが宙乗りをし、終盤にはつんくの紅い衣装が仕込まれた塗料の破裂に伴い白に剥げるという仕掛けを行った。
- また、この年亡くなった藤子・F・不二雄と渥美清を偲び第1部では、「ドラえもんのうた」(テレビ朝日系アニメ『ドラえもん』における当時の主題歌)を出場歌手(松田聖子がしずか役、SMAPの中居正広がスネ夫役、RATS&STARの桑野信義がジャイアン役をそれぞれ演じた[6])と松で、第2部では、「男はつらいよ」を出場歌手で大合唱された。前者では、ドラえもん・のび太・しずか・スネ夫・ジャイアン・のび助・玉子の着ぐるみも登場した。さらにドラえもん・のび太・しずか・スネ夫・ジャイアンについては、当時のアニメ版『ドラえもん』の声優陣(大山のぶ代・小原乃梨子・野村道子・肝付兼太・たてかべ和也)の参加によって声も発していた。この演出について、大山は後に著書『ぼく、ドラえもんでした。』内で「前の時間帯で(テレビ朝日で)『ドラえもん』のスペシャルをやっている中、こういう局の垣根を越えた演出をしてくれて感謝しています」と述べている。
- 松は本番中、森口博子の歌唱前でスタンバイ中に誤って曲紹介を終えようとし、たまたまその時応援として司会席に居た過去に紅組司会の経験がある和田アキ子に助けられる一幕(この時、和田は「どうして私が居る時にこんなふうになっちゃったんでしょうか?」と松に対し述べた。なお、これに松は和田に「頼りにしてます」と返している)もあれば、本人がファンだという松田聖子の歌唱前では台本が飛んでしまうなどミスも相次いだ。
- 白組トリおよび大トリは今回のテーマ「歌のある国・にっぽん」にちなんだ北島三郎の「風雪ながれ旅」。
- 9対4で白組が優勝(客席審査は紅組:801、白組:1295、ゲスト審査員は紅組:4、白組:7で共に白組が優勢)。
- 審査員を務めた桂米朝は本番中居眠りをしていたという[7]。米朝は「安室奈美恵の歌が良かった、どんどん自分の中に入ってきた」と感想を述べている[8]。
- 松は翌年歌手デビューを果たし、第48回は出場歌手としての出演を果たした(前年の司会が歌手として初出場するのは初めて)。また第48回にて同回の紅組司会を務めた和田アキ子が松の曲紹介時、松が前回(今回)紅組司会を務めたことに触れた後、松が和田に「去年はありがとうございました」、和田が松に「いえいえ、どう致しまして」とのやりとりを交わす場面があった。さらに同回での和田の歌手出番の曲紹介を松が担当した。
- 古舘の連続司会は今回が最後となり[9]、以後も司会担当はしていない[10]。古舘は後の『産経新聞』(2016年6月23日付)のインタビューで「紅白の司会を3年連続でやらせてもらったことは、司会者としては勲章のようなものです。時代も変わりましたし、今さら僕の司会は求められないでしょうが、もしも、また要請が来るなら、喜んでやらせていただきます(笑)」と語っている[11]。
- 総合司会の草野満代は、この2ヶ月後にNHKを退職してフリー転身し、翌年の12月31日は第48回の裏番組『第39回日本レコード大賞』(TBS系列。草野はフリー転身後長らくTBSと専属契約していた)の司会を務めた[12]。また、第48回では宮本が初めて単独で総合司会を務める形になった。
- 瞬間最高視聴率(ビデオリサーチ調べ)のトップは、関東地区では玉置浩二が歌った後の21時50分に記録された59.9%[13]、関西地区では小林幸子が歌い終わる直前の22時41分に記録された59.7%だった[13]。小林幸子は関西地区における瞬間最高視聴率で2年連続のトップを記録した[13]。
初出場、 返り咲き。
- 「ドラえもんショー」曲目・歌手
- 「男はつらいよショー」曲目・歌手
『日刊スポーツ』(この年10月14日付)も「両組司会は上沼・古舘の3連投が有力」と報じていた。
『日本レコード大賞』の司会(メイン格)はこの年から2011年まで紅白の司会経験者(古舘の前任白組司会)である堺正章が務めることとなり、紅白司会経験者の2人が翌年の『第39回日本レコード大賞』で揃って司会を担当する格好となった。
「小林幸子ピカッ一 『紅白』分刻み視聴率 関西2連覇」『日刊スポーツ』1997年1月7日付大阪版、13版、22頁。
『読売新聞』1996年11月30日付東京夕刊、5頁。
『毎日新聞』1996年12月27日付東京夕刊、15頁。
- NHK『テレビ50年 あの日あの時、そして未来へ』(NHKサービスセンター 2003年2月)