第二次世界大戦下のルーマニア
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本項では、第二次世界大戦下のルーマニア(当時はルーマニア王国)について解説する。
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1939年9月1日、ナチス・ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発すると、カロル2世統治下のルーマニア王国は9月4日、中立を表明した[1]。しかし、1940年にはナチス・ドイツが北欧とフランスとベネルクス三国を制圧してヨーロッパ情勢が激変し、国内の政治的混乱も相まって中立政策は弱まっていった。大戦勃発に先立つ1930年代、ルーマニア国内では鉄衛団のような在野ファシスト政治勢力が台頭していたほか、1939年3月23日にアルマンド・カリネスク首相はプロイェシュティ油田などの利権をドイツへ譲渡する経済協力協定を締結していた[1]。
ナチス・ドイツとソビエト連邦は1939年に独ソ不可侵条約を結び、秘密議定書で東欧における勢力範囲分割を取り決めていた。1940年6月、ソ連はルーマニアに圧力をかけてベッサラビアと北ブコヴィナを割譲させた。第一次世界大戦で敗戦国となっていた、隣国のハンガリーとブルガリアもドイツの仲介下、ルーマニアから旧領の一部を奪取した。ルーマニア世論は憤激し、カロル2世はミハイ1世に譲位して1940年9月に亡命。親独派のイオン・アントネスクが政権を掌握した。10月4日にドイツ軍がルーマニアに進駐し、11月23日にルーマニアは枢軸国への参加を公式に表明した。駐留ドイツ軍とルーマニア軍は、領土割譲への反対運動を続ける鉄衛団を1941年にかけて鎮圧した[2]。
ナチス・ドイツが1941年6月22日に開始したソ連侵攻にルーマニアも参戦し、ドイツに装備や石油を提供したほか、ドイツの同盟国としては最大の軍隊を東部戦線に送り込んだ。 イギリスはルーマニアに対し、対ソ戦線への参加を見送るよう働きかけたがルーマニアは拒否。同年12月5日、イギリスがルーマニアに対して宣戦布告を発表し[3]、枢軸国側の一員として戦うことが決定づけられた。
ルーマニア軍は、ウクライナ、ベッサラビア、スターリングラードなどの戦闘で重要な役割を果たした。また、ルーマニア軍は占領地域で26万人のユダヤ人を迫害、虐殺したが、旧来からのルーマニア国内に住むユダヤ人は、ほとんどがこの過酷な状況を生き延びた[4]。歴史家・作家のマーク・アックスワージーによると、ヨーロッパ二番目の枢軸国勢力はルーマニアであると考えられるが、イタリアであるとする説も根強く、論争の的となっている[5]。
戦況は次第に枢軸国が不利になる。1943年以降はルーマニアも連合国軍による空襲を受け、1944年3月29日にはソ連がプルト川を渡河してルーマニアに侵攻した。同年8月23日、ミハイ1世はクーデターを起こしてアントネスクを解任し、コンスタンチン・サナテスクが首相に就いた。翌8月24日、ルーマニア政府はドイツに国交断絶と軍事同盟解消を通告。ドイツが首都ブカレストを爆撃したため、8月25日にルーマニアはドイツへ宣戦布告した。ルーマニア軍は、同じく枢軸国から離脱したブルガリア軍とともにソ連軍指揮下に組み込まれ、ドイツ軍やハンガリー軍と戦った[6]。
戦後、ルーマニアはハンガリーから北トランシルヴァニアを奪還したものの、ベッサラビア(モルドバ)と北ブコヴィナはソ連領、南ドブロジャはブルガリア領のままとなった。ソ連は、ルーマニアを含めて占領した東欧諸国をソ連陣営に組み込み、東欧革命まで西側諸国との東西冷戦が続いた[6]。アントネスクは1946年6月に処刑された。ミハイ1世も国を追われ、ルーマニア共産党が統治するルーマニア人民共和国へ移行した。