第一次シュレージエン戦争
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第一次シュレージエン戦争(だいいちじシュレージエンせんそう、ドイツ語: Erster Schlesischer Krieg)は、1740年から1742年にかけてシュレージエンの帰属を巡って行われたプロイセンとオーストリアの戦争。オーストリア継承戦争を構成する戦役の一つで、18世紀中期に戦われた一連のシュレージエン戦争の始まりである。訳の違いからシレジア戦争とも呼ばれるが、本項では「シレジア」は「シュレージエン」に統一している。
概要 第一次シュレージエン戦争, 時 ...
第一次シュレージエン戦争 | |||||||||
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シュレージエン戦争、およびオーストリア継承戦争中 | |||||||||
現在の国境図とシュレージエン。青枠がオーストリア領シュレージエン、黄枠がプロイセン領シュレージエン | |||||||||
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衝突した勢力 | |||||||||
プロイセン | ハプスブルク帝国 | ||||||||
指揮官 | |||||||||
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主戦場はシュレージエンのほか、モラヴィアとボヘミア(ボヘミア王冠領)も含まれる。プロイセンは開戦事由に数世紀前からのシュレージエンの一部への領土主張を挙げたが、戦争勃発にはレアルポリティークと地政戦略上の影響もみられる。女性であるマリア・テレジアがハプスブルク帝国(オーストリア)を継承することに異議を唱えられたため、プロイセンがザクセン選帝侯領やバイエルン選帝侯領を出し抜いて勢力を増す機会となった。
戦争は1740年末にプロイセンがオーストリア領シュレージエンに侵攻したことで始まり、1742年のベルリン条約(英語版)で終結を告げた。ベルリン条約により、プロイセンはシュレージエンの大半とボヘミアの一部を奪取したが、一方でオーストリア継承戦争は終結せず、わずか2年後にはプロイセン・オーストリア間の紛争が再発し第二次シュレージエン戦争が勃発した。大国オーストリアと比べて小国であるプロイセンがオーストリアに打ち勝ったことにより普墺角逐(英語版)が始まり、以降1世紀以上のドイツ史に大きな影響を与えることとなった。