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日本の評論家 ウィキペディアから
神津 陽(こうづ あきら、1944年 - )は、日本の社会評論家・運動家。元駿台予備学校講師。
愛媛県宇和島市出身。愛媛県立宇和島南高等学校、中央大学法学部一部法律学科卒業。
三上治(味岡修)とともに新左翼の党派である共産主義者同盟(ブント)叛旗派の理論的指導者として、中大闘争、三多摩闘争、三里塚闘争等を主導する。著書『蒼氓の叛旗』はベストセラーとなった。70年代以降ブント内でも赤軍派に見られるような急進的軍事革命路線と、その他穏健派閥の中で対立が生まれ、新左翼グループ内で内ゲバが横行するようになると、これに嫌気をさした神津は1976年叛旗派を解散。以後在野の社会評論家として活動した。
駿台予備学校では1990年の論文科開設とともに講師に就任。法学系論文を担当し、主に社会科学系の学科を志望する受験生に小論文指導を行った。しかし受験生への指導方法をめぐり駿台論文科の主任であった最首悟や同僚講師陣と対立。この対立を背景に、受験生世代減少に伴う生徒減で経営合理化を企図する駿台から1998年に解雇を通告される。反発した神津は労働組合を結成して同時期に解雇された世界史科講師とともに労働争議として解雇の是非を争うこととなる。また駿台の不透明な経営実態告発を、神津個人のホームページや駿台校舎周辺でのビラ撒きで情宣の一環として行ったところ、1999年駿台から名誉毀損による1億5千万円の損害賠償を求め提訴され、マスコミをにぎわす駿台争議へと発展した。この争いは東京都労働委員会の調停により2000年に和解、駿台側が損害賠償請求・解雇通知を取下げ和解金を支払うことで決着し、事実上労組勝利に終わった。
近年は出身地である宇和島の伊達藩お家騒動を解説した『兎の耳-もう一つの伊達騒動』、居住する日野市の史料を読み解いた『新選組多摩党の虚実―土方歳三・日野宿・佐藤彦五郎』を著すなど郷土史研究の業績も重ねている。
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