石黒荘
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石黒荘(いしくろのしょう)とは、越中国砺波郡南西部(現在の富山県南砺市平野部一帯)に存在した荘園。
もとは後三条天皇の御願寺たる円宗寺の荘園であったが、円宗寺の衰微に伴って仁和寺菩提院・醍醐寺遍智院等に分割領有された。鎌倉時代から室町時代にかけて小矢部川水運を通じて放生津湊(現新湊港)と結びつき経済的に繁栄したが、戦国時代に一向一揆による支配が進んだことによって実態を失った。
石黒荘の範囲は旧西礪波郡福光町一帯を中心として、旧東砺波郡城端町・井口村・福野町中西部にまで及び、現在の南砺市平野部の大部分に相当する。鎌倉時代以後は「十郷」から成るとされ、石黒上郷・中郷・下郷で1荘、山田郷・弘瀬郷で1荘、吉江郷・太海郷・院林郷・直海郷・大光寺郷で1荘の、「石黒三箇荘」とも呼ばれていた[1]。