王浚ウィキペディア フリーな encyclopedia 「王舜」、「王峻」、あるいは「王駿」とは別人です。 王 浚(おう しゅん、嘉平4年(252年) - 建興2年3月4日[1](314年4月4日))は、中国西晋末から五胡十六国時代の将軍・政治家。字は彭祖。并州太原郡晋陽県(現在の山西省太原市晋源区)の人。父は西晋の驃騎将軍王沈。母は趙氏。妻は崔毖[2] の姉妹。また、華芳(華歆の子の華炳の孫娘で、華衍の娘)を妻としたという墓誌も伝わっており、墓誌によると先に文粲(文猗の娘)・衛琇(衛瓘の弟の衛寔の娘)と結婚したが死別したという[3]。幽州で地盤を確立し、前趙の石勒を阻んだが、晩年には晋朝を蔑ろにして自ら皇帝即位を目論んだ。
「王舜」、「王峻」、あるいは「王駿」とは別人です。 王 浚(おう しゅん、嘉平4年(252年) - 建興2年3月4日[1](314年4月4日))は、中国西晋末から五胡十六国時代の将軍・政治家。字は彭祖。并州太原郡晋陽県(現在の山西省太原市晋源区)の人。父は西晋の驃騎将軍王沈。母は趙氏。妻は崔毖[2] の姉妹。また、華芳(華歆の子の華炳の孫娘で、華衍の娘)を妻としたという墓誌も伝わっており、墓誌によると先に文粲(文猗の娘)・衛琇(衛瓘の弟の衛寔の娘)と結婚したが死別したという[3]。幽州で地盤を確立し、前趙の石勒を阻んだが、晩年には晋朝を蔑ろにして自ら皇帝即位を目論んだ。