![cover image](https://wikiwandv2-19431.kxcdn.com/_next/image?url=https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c5/Eiko_Minami_A_Page_Of_Madness.jpg/640px-Eiko_Minami_A_Page_Of_Madness.jpg&w=640&q=50)
狂つた一頁
日本の映画作品 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
親愛なるWikiwand AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:
トップの事実と統計を挙げていただけますか 狂つた一頁?
この記事を 10 歳向けに要約してください
『狂つた一頁』(くるったいちぺいじ[4]、小書き表記:『狂った一頁』)は、1926年(大正15年)9月に公開された日本のサイレント映画である。監督は衣笠貞之助、主演は井上正夫。衣笠が横光利一や川端康成などの新感覚派の文学者と結成した新感覚派映画聯盟の第1回作品で、日本初の本格的な前衛映画(アヴァンギャルド映画)である[5]。精神病院を舞台に、過去の心的外傷で精神を患い入院した妻を見守るために、その病院で小使として働く老人を主人公とする家庭悲劇の物語が、過去と現在、幻想と現実、狂気と正気を交錯させながら展開される[6]。
狂つた一頁 | |
---|---|
A Page of Madness | |
![]() 「笑いの面」をつけて踊る踊り子(演:南栄子) | |
監督 | 衣笠貞之助 |
脚本 | |
原作 | 川端康成 |
製作 | 衣笠貞之助 |
出演者 | |
撮影 | 杉山公平 |
製作会社 |
|
公開 | |
上映時間 | |
製作国 |
![]() |
言語 | 日本語(サイレント、無字幕) |
テンプレートを表示 |
物語は松沢病院を見学した衣笠の発案によるもので、川端、衣笠、犬塚稔、沢田晩紅の4人の共同で脚本が作成され、撮影終了後に川端名義でシナリオが雑誌上に発表された。衣笠がプロデューサーを兼任した自主製作映画として作られ、撮影は1926年(大正15年)5月に松竹下加茂撮影所を借りて行われた。同年9月に新宿の武蔵野館などの洋画専門館で封切られ、映画評論家や識者から高い評価を受けたが、興行的には失敗した[7][8]。新感覚派映画聯盟は本作を残しただけで解散したが[7][8]、本作はその後の横光や川端のいくつかの作品描写や文体に影響を与えた面もあった[9][10]。
1920年代のヨーロッパの前衛映画運動の潮流と呼応する作品であり、『カリガリ博士』(1920年)などのドイツ表現主義映画(英語版)や、フランス印象主義映画(英語版)から強い影響を受けている[5]。光と影のコントラストを強調した表現主義的な照明、短いショットをリズミカルにつなぐ手法のフラッシュ、フラッシュバック、オーバーラップ(英語版)、クローズアップ、多重露光などの映画的技法が駆使され[5][11]、純粋な映像だけによる表現が追求されている。映像の純粋性をねらう横光の提案により、サイレント映画でありながら全編が無字幕となっているが、実際の上映には活動弁士の説明が伴っていたため、映像の純粋性を保持することはできず、その点は公開当時に識者から批判された[12][13]。
公開後、本作は長らく失われた映画と考えられていたが、1971年(昭和46年)正月に衣笠の自宅の蔵から偶然フィルムが発見された[6]。衣笠は自らこれを再編集し、新たに伴奏音楽を付けた「ニュー・サウンド版」を製作し、1975年(昭和50年)10月に岩波ホールで一般公開された[6]。フィルムの発見以後、フランスやイギリス、アメリカなどの欧米各国でも上映されており、国際的にも高い評価を受けている。今日まで多くの映画史研究者により、世界映画史における記念碑的作品として認められ[5]、多くの国々の映画界でよく知られている作品である[14]