![cover image](https://wikiwandv2-19431.kxcdn.com/_next/image?url=https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/85/%25E6%25BD%2598%25E7%25A5%2596%25E8%2594%25AD.jpg/640px-%25E6%25BD%2598%25E7%25A5%2596%25E8%2594%25AD.jpg&w=640&q=50)
潘祖蔭
ウィキペディア フリーな encyclopedia
潘 祖蔭(はん そいん、Pān Zǔyīn、1830年 - 1890年)は、清の官僚・金石学者。字は伯寅、号は鄭盦。江蘇省呉県(現在の蘇州市)出身。
![Thumb image](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/85/%E6%BD%98%E7%A5%96%E8%94%AD.jpg/320px-%E6%BD%98%E7%A5%96%E8%94%AD.jpg)
状元の潘世恩の孫。1852年、探花として進士となり、編修となった。その後、侍読学士、光禄寺卿、左副都御史、工部侍郎、戸部侍郎、大理寺卿、礼部右侍郎、工部尚書、刑部尚書、兵部尚書を歴任し、1882年には軍機大臣に就任した。死後、太子太傅と文勤の諡号を贈られた。
1860年、左宗棠が弾劾されたときに弁護して、「国家にとって湖南が無いことは一日もあってはならず、湖南にとって宗棠が無いことは一日もあってはならない」と述べた。
書物や金石碑文の収蔵家であり、目利きとして広く名を知られ、「潘神眼」と称された。
金石を好んで収蔵し、そのコレクションは陳介祺と並んで称された。