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尾張藩第7代藩主徳川宗春が著した政道書 ウィキペディアから
『温知政要』(おんちせいよう)は、江戸時代の大名尾張藩第七代藩主徳川宗春によって記された1731年の政教書。尾張藩儒官深田慎斎宗信が添削している[1]。
宗春は、享保15年(1730年)11月28日、尾張七代藩主となる。すぐに、この政治宣言の著述を表しはじめ、翌享保16年(1731年)3月に脱稿[2]。御手刷版は、享保17年(1732年)に刷られ、主だった尾張藩士に配られている[1]。書写版が出まわり、流行仕掛けたときに、京の出版所に依頼してあった普及版は、幕府京都所司代牧野英成の京都町奉行所[3]によって、出版差止めとなる[1]。宗春隠居謹慎後は、尾張藩内の御手刷版も回収処分されたために、現存数は少ないが、幾つかの御手刷版と写本が残されている。
『温知政要』という言葉は『論語』の「温故知新」および『貞観政要』の影響が認められる。また第六条の適材適所の思想には、当時流行した荻生徂徠の思想の影響が見られる[4]。本文中に『大学』の明徳に関して記され、『 孟子(梁恵王上』の「仁者に敵なし」、『論語』の「用を節して人を愛す」等が引用されている。
二十一箇条からなる。概要を記すと[6]
古より国を治め民を安んするの道は仁に止るる也とそ
我武門貴族の家に生るといへとも衆子の末席に列り
且生質疎懶にして文学に暗く何のわきまえもなかりし中
幕府衹候の身となり恩恵渥く蒙りしうへ
はからすも嫡家の正統を受續き藩屏の重職に備れり
熟思惟するに天下への忠誠を尽し先祖の厚恩を報せん事は
国を治め安くし臣民を撫育し
子孫をして不義なからしむるより外有まし故に
日夜慈悲愛憐の心を失わす万事廉直にあらん為
思ふるを其侭に和字に書付け一巻の書となして諸臣に附與す
是我本意を普く人にもしらしめ永く遂行ふへき誓約の證本なるうへ
正に上下和熟一致にあらん事を欲するか為に云
享保十六辛亥三月中浣
参議尾陽侯源宗春書[7]
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